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「開港のひろば」第135号
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資料よもやま話
横浜華僑・李家の肖像
横浜大空襲と戦後の李家
1945年5月29日の横浜大空襲で李家は被災する。焼け出された一家は、軽井沢に避難した。欧米人などの避暑地として栄えた軽井沢には、彼らのお抱えコックの中国人も住んでいた。李家はコック仲間の知り合いを頼り、軽井沢に向かったのである。
1945年8月に戦争が終わった段階では、李徳成1家は横浜に戻っていた。当時作成された神奈川県在住中国人名簿(米国議会図書館がマイクロフィルムを所蔵)には、山下町106番地に李徳成と3人の息子の名前が見られる。
1947年、徳成はこの場所で中華料理店の嶺南を開く。この年に徳成の長男福泉と結婚した鄭金美氏によれば、お店はバラック造りだったが、日本人の客で繁昌したという。その後は一時、喫茶店に衣替えするが、ふたたび本格的中華料理店として嶺南を再開させた。
1976年、李徳成は79年の生涯をとじ、横浜中華義荘に埋葬された。明治、大正、昭和を生きぬいた横浜華僑の人生の断片が、古い写真や資料から蘇った。
(伊藤泉美)
- 故人については敬称を略した。
- 「明治十年在横浜清国人名簿」については、拙稿「1877年の横浜外国人居留地における中国人」(『横浜開港資料館紀要』第33号、2015年)を、李福泉へのインタビュー記録は『横浜華僑の記憶』(横浜開港資料館・中華会館編、2010年)を参照されたい。