横浜開港資料館

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「開港のひろば」第135号
2017(平成29)年2月1日発行

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展示余話
地方名望家が記した「天皇崩御」

明治天皇の「崩御」は、近代化を成し遂げた日本にとって初めての経験であった。明治維新以前、天皇は限られた人びとのみが知る存在だったが、全国への行幸や新聞メディアの発達、さらに浮世絵や版画、肖像画等を通じて、広く国民の中に浸透していった。そうしたなかで、明治天皇の最期は、人びとにどのように受け止められていったのだろうか。企画展示「明治天皇、横濱へ―宮内省文書が語る地域史―」では、現在の横浜市域に位置する橘樹郡の名望家、大綱村(現・港北区)の飯田助夫や生見尾村(現・鶴見区)の佐久間権蔵の日記から明治天皇の崩御と地域社会の対応を描いた。各々の日記から「明治」という一つの時代の終焉が浮かび上がってくる。そこで今回は、1912(明治45・大正元)年の「佐久間日記」を中心に、改めて天皇の最期と地域社会の対応を追いかけてみたい。

図1 佐久間権蔵の肖像
『鶴見興隆誌』(自由新聞社、1930年)より
図1 佐久間権蔵の肖像『鶴見興隆誌』(自由新聞社、1930年)より
図2 佐久間権蔵日記 1912(明治45・大正元)年 当館蔵
図2 佐久間権蔵日記 1912(明治45・大正元)年 当館蔵

明治天皇の病状悪化

1912(明治45)年7月20日午前10時30分、宮内省は天皇の病状悪化を発表、さらに午後には、官報の号外を通じて広く国民に伝達していった。その内容は、「天皇陛下は明治三十七年末頃より糖尿病に罹らせられ、次で三十九年一月より慢性腎臓炎御併発、爾来御病勢多少増減ありたる処、本月十四日御腸胃症に罹らせられ、翌十五日より少々御嗜眠の御傾向あらせられ、一昨十八日以来、御嗜眠は一層増加御食気減少、昨十九日午後より御精神少しく恍惚の御状態にて、御脳症あらせられ、御尿量頓に甚しく減少、蛋白質著しく増加、同日夕刻より突然御発熱、御体温四十度五分に昇騰、御脈百〇四至御呼吸三十八回」というものであった。翌23日の新聞各紙は「御不例」として、官報と同様の内容を掲載するとともに、宮中の動向や国民の反応を報じている。

宮内省の編纂した『明治天皇紀』によれば、7月10日の東京帝国大学卒業証書授与式に臨んだ頃から体調悪化の兆候があった。夏の暑さが増すなか、持病の糖尿病が悪化、さらに尿毒症を併発したため、明治天皇の体調は崩れていった。宮内省の発表にもあるように、眠る時間が増加していった。

他方、官報掲載の情報は、20日中に生見尾村にも伝わったようである。同日の「佐久間日記」には、朱書きで「午後皇上陛下大患の号外来る、突然の報にて衆大に憂惧す」と、人びとの反応を記した上で、「糖尿病と脳をおいための由、何卒御平癒を祈る」と、明治天皇の回復を願っている。こうした人びとの気持ちは後に祈願という行動によって表面化することになる。

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