HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第135号 資料よもやま話 横浜華僑・李家の肖像〈1〉
「開港のひろば」第135号
|
資料よもやま話
横浜華僑・李家の肖像
ここに1枚の古い写真がある。中国服をきた3人の男性と学帽を被った2人の少年が写っている。本稿の主人公は、写真の左端にたたずむ、李徳成少年である。
周知の通り、横浜中華街は1923年の関東大震災と1945年の横浜大空襲で2度にわたり焦土と化した。そのため、そこで暮らしていた人びとをとらえた写真は極めて少ない。この度、李徳成のご子孫にあたる黎啓榕氏より李家に関する貴重な資料を当館にご寄贈いただいた。その一部を紹介しつつ、李家の横浜での足跡をたどってみたい。
写真の撮影年代
まずは写真を見ていこう。中央に座っているのが、李貴昌(1848年〜1928年)で、その右隣が長男の東成、右端が次男の金成、李貴昌の左隣が3男の啓成、左端が4男の徳成である。左の2人は学帽をかぶり制服のようなコートを着ているので、学校に通っていたのだろう。左端の徳成はまだ幼く、尋常小学校の1年生くらいだろう。徳成は1897年生まれなので、6歳だとすれば、写真の撮影年代は1903年頃と推定される。当時、横浜中華街には尋常および高等小学校に相当する大同学校があり、徳成はここに入学したと考えられる。
撮影年を1903年とすると、父李貴昌は55歳、長男東成は24歳、次男金成は20歳、3男啓成は17歳となる。このように年齢がわかるのは、李家には「族譜」という中国の家系図が伝わっているからだ。族譜は、原則的に父系血縁集団である宗族内の男子について、歴代の氏名、続柄、生没年、経歴などを記録したものである。図2は、李家の族譜で、第18世の徳成とその息子と孫世代にあたる第19世、第20世について記した箇所である。
図1の写真の撮影場所は残念ながら不明である。横浜の写真館かとも思われるが、背景画には、洋室の中に中国的にも見える植物が描かれており、香港などで撮影した可能性も排除できない。