横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第135号  資料よもやま話  横浜華僑・李家の肖像〈2〉

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第135号
2017(平成29)年2月1日発行

表紙画像

資料よもやま話
横浜華僑・李家の肖像

広東から横浜へ

この写真におさまるまでの李家の足跡を考えてみたい。李家のルーツは中国の南部、広東省南海県黄竹岐堡である。横浜での足跡は、徳成の父李貴昌が20歳の頃、単身で横浜を訪れたことに始まる。出生年から計算すると、1870年前後である。現存する1877年の横浜在住中国人の名簿(「明治十年在横浜清国人名簿」『神奈川県史料』第7巻所収、原本は国立公文書館蔵)を調べてみると、残念ながら李貴昌の名前はない。ただし、名簿には、「李承昌」・「李達昌」・「李雲昌」と似たような名前が見られる。中国人の男性は、兄弟・従兄弟・はとこなど、宗族内で同じ世代に属する者が名前の一文字を共有する習慣があるため、この3人が親戚であり、彼らを頼って来日した可能性もある。

貴昌の孫李福泉は、「祖父は単身で横浜にやってきて、こっちで祖母(梁氏)と結婚した」と語っている。長男の東成が1879年生まれであるため、77年の名簿に李貴昌の名が見られない状況の解釈は3つあるだろう。第1は初来日が1878年頃とする解釈、第2は1876年以前に来日していたが、1877年時点では妻と共に帰国していたとする解釈である。というのも、77年の名簿で梁姓の女性は9人確認できるが、1名は女児、残りの8名にはいずれも配偶者がおり、貴昌の妻である梁氏は見当たらないからだ。第3は、横浜にはいたが、登録していなかったので人名簿には掲載されていないとする解釈である。「在横浜清国人名簿」は当時の登録証である「籍牌」を受けた者の名簿だが、在住者の中には未登録の者もいたからだ。

李家の家業

来日後の李貴昌は、西洋料理のコックとして横浜で働いていたと伝わる。長男の東成については、1924年頃の記録『中華民国十二年九月一日横浜大震災中之華僑状況』によれば、妻李黄玉蘭と長男李福基とともに根岸町に住み、職業は料理業となっている。

次男の金成については、創業年は定かではないが、中華街の山下町147番地に洋食の金海亭を営んでいた。図3は1940年頃の中華街の記憶地図だが、中央の路地沿いに「金海亭」が見られる。現在の香港路沿いである。店の名は「金成」の金と、先祖の地「南海」の「海」を組み合わせたのだろうか。この店は1945年頃まで存続した。1940年に神戸から横浜にやってきた鄭金美氏(後に徳成の長男福泉と結婚)は、金海亭の向かいに住んでいたが、店はいつも賑わっていたと記憶している。

図3 中華街記憶地図 1940年頃
『横浜華僑の記憶』(中華会館・横浜開港資料館編)より
図3 中華街記憶地図 1940年頃 『横浜華僑の記憶』(中華会館・横浜開港資料館編)より

4男の徳成は、1942年頃には、東京の花月食堂でコックをしていた。図4は当時の写真である。花月食堂は東京駅前の丸ビルの地下にあり、『東京名物食べある記』(時事新報社家庭部編、1929年)にも登場する、日本人経営の食堂であった。1942年は日中戦争の最中であったが、徳成は横浜中華街の自宅から、東京駅前の店まで通勤していたのである。

図4 李徳成(44歳) 1942年
黎啓榕氏寄贈・横浜開港資料館所蔵
図4 李徳成(44歳) 1942年 黎啓榕氏寄贈・横浜開港資料館所蔵

≪ 前を読む      続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲