横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第135号
2017(平成29)年2月1日発行

表紙画像

展示余話
地方名望家が記した「天皇崩御」

地域社会の対応

宮内省の発表以降、新聞各紙は天皇の病状と宮中の動向、そして人びとの反応を連日報道していった。例えば『横浜貿易新報』は、県内で行われる祈願の動きを「奉祈神明加護」や「億兆の心」と題して報じている。各地域の神社や寺院、小学校では、住民が集って明治天皇の病状回復を祈っていった。

そうした地域社会の動きは「佐久間日記」からも読み取ることができる。7月25日の日記に「陛下御大患平癒祈願の為め、二十三日より毎日午前四時に村社にて神官祈祷挙行につき各自参拝す」とあるほか、27日の日記には、「午前八時陛下の御平癒を祈祷の為め一同学校に集合す、第一に生徒を引つれ白幡神社にて祈願し、十二時頃生麦の杉山神社にて祈祷し、一時過当鎮守(神明社―引用者注)にて祈祷し二時過解散し」と記されている。このうち後者については、28日付の『横浜貿易新報』も「生見尾の祈念」と題して報じており、青年会や教職員・児童、村会議員など約1000人で三つの神社を参拝していた。また、佐久間権蔵は28日に鶴見の總持寺で催された病状回復を祈る大布薩会にも参加している。

横浜市内では、キリスト教の教会員が尾上町(現・中区)の指路教会に集って連合祈祷会を継続的に行うなど、宗教・宗派に関係なく、各地域において天皇の病状回復を祈る動きが展開されていた。

天皇の最期と改元

宮内省の発表から9日後、7月29日の「佐久間日記」は、「午前今上陛下御危篤の号外来る、嗚呼国民の熱祷も神明に通ぜざるか、実に痛歎の極」という朱書きから始まる。また、危篤の情報を得た『横浜貿易新報』も「悲痛の極」と題して、「宮内省公示は、回を重ねる毎に、唯々我等臣子の恐惟を加へしむるものある而巳、嗚呼是れ果して如何なる事ぞや」と、落胆する気持ちを表している(30日付社説)。おそらく、人びとはこの段階で天皇の最期を覚悟したのだろう。

先に挙げた『明治天皇紀』によれば、28日午後7時頃から昏睡状態に陥っていた。その後、29日午後10時43分に明治天皇は61年(満59歳)の生涯を閉じたが、践祚準備のため、公式には、30日午前0時43分に心臓麻痺によって崩御と発表された。『明治天皇紀』の叙述もそのようになっている。

この情報は同日中に生見尾村にも伝わったようで、佐久間権蔵は「嗚呼、今日は如何なる日ぞ、本月十九日御罹病御発表以後国民は日夜 陛下の御回春を神仏に念し念す、夢寝の間も一度は御健康の御英姿を拝せんと想ひ居りし処、天命人力の如何ともなし難き、遂に今午前零時四十三分崩御被遊る、噫悲哉痛哉」と、悲しみを日記に記しるしている。また、これまでの天皇の偉業をまとめ、「皇祖以来の明君にして世界に比類なき聖帝なり」と讃えたほか、夜になって改元の号外が来たことを記録、「本日午前一時に皇太子の践祚式ありたり」と記している。

図3 7月30日の記述
「天皇崩御」に関する感想が朱書きで記されている。
図3 7月30日の記述「天皇崩御」に関する感想が朱書きで記されている。

翌31日の『横浜貿易新報』も偉業とともに、天皇崩御を報じたほか、皇位継承の過程や弔意を示す県内各地の様子を伝えた。明治天皇の最期は、多くの人びとに深い悲しみをもって受け止められたのである。

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