横浜開港資料館

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「開港のひろば」第135号
2017(平成29)年2月1日発行

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展示余話
地方名望家が記した「天皇崩御」

明治天皇の大喪儀

天皇崩御以降の「佐久間日記」には、鎮守における改元の奉告祭(8月12日)、明治天皇の追号発表(8月27日)、總持寺における明治天皇の奉悼式(8月28日)總持寺の御大葬奉送(9月12日)などが記録されている。

8月6日、宮内省は明治天皇の大喪儀を9月13日から15日までと定め、東京の青山練兵場で葬場殿の儀が行われた後、京都伏見の桃山陵に葬られることになった。

9月13日、佐久間権蔵は息子の道夫を總持寺の奉送団員として東京に派遣したほか、自らは体調を崩しながらも午後7時から小学校で行われた遥拝式に出席した。その後、14日午前3時16分頃に鶴見駅を通過する霊柩列車を見送るため、自宅裏の線路際で待機した。この時、消防組や在郷軍人会、小学校児童などで鶴見駅の周辺は混雑していた。

権蔵は「三時十分頃第一列車(サキ供)通過し御柩車はだいぶをくれて三時二十六七分頃通過ある」と列車通過時の様子を記した上で、「此のとき一同は最敬礼をなして直に頭を上け御柩車を仰拝すれは、第四番目の御霊柩車はまどの幕を透して御霊柩幽にうつり、かなしみと敬愛の念は胃にせまり、長へに陛下に御別るゝかと思へば何んとも云へぬ頭になれり、あゝ陛下の御鴻業四海を蔽ふを追想して涙数行、此の印象は永く々々頭にやどれり」と、明治天皇との別れを日記に記している。

1868(明治元)年に鳳輦(御輿)に乗って京都から東京へ移動し、1872(明治5)年に横浜で初めて鉄道に乗った明治天皇は、鉄道によって京都に戻っていった。明治維新から45年の間、日本の近代化は大きく進展した。明治天皇の大喪儀はそのことを表す象徴的な出来事だったと言えるだろう。

(吉田律人)

図4 明治天皇大喪儀絵巻 田中有美画 宮内公文書館蔵
佐久間道夫は東京の日比谷公園で明治天皇の葬列を見送っている。
図4 明治天皇大喪儀絵巻 田中有美画 宮内公文書館蔵 佐久間道夫は東京の日比谷公園で明治天皇の葬列を見送っている。

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