横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第131号
2016(平成28)年2月3日発行

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企画展
ドイツと日本の交流の足跡
―遺された資料から―

シーボルト関係資料

19世紀半ば以降、東アジアではドイツ語圏地域の国々の人びとが活躍するようになったが、日本でもっとも有名なドイツ人はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(④)であろう。彼は若い頃から東洋研究を志し、1823年に長崎出島のオランダ商館医師として来日した。彼は、翌年、出島の外に鳴滝塾を開設し、日本全国から集まった人びとに西洋の学問を講義した。彼の弟子には高野長英・伊藤玄朴・小関三英ら幕末に活躍した人物も多い。彼が任務を終えて帰国したのは1828年で、帰国に際して彼の積荷から国外持ち出し禁止の日本地図などが発見され、彼は幕府から追放処分を受けた。シーボルトが再来日したのは1859年で、オランダ貿易会社の顧問として活動した後、1861年には幕府の外交顧問に就任した。しかし、対外交渉では重要な役割を果たすことなく数ヶ月で解任され、1863年に帰国した。

④フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像
個人蔵(Constantin von Brandenstein, Schlüchtern)
絵入りロンドン・ニュースの特派員チャールズ・ワーグマンが横浜で描いた。
④フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像 個人蔵(Constantin von Brandenstein, Schlüchtern) 絵入りロンドン・ニュースの特派員チャールズ・ワーグマンが横浜で描いた。

展示では日本史に大きな足跡を残したドイツ人としてシーボルトを取り上げ、関係資料をドイツから借用した。⑤はシーボルトの長男アレクサンダーと次男ハインリッヒの写真である。明治時代に入り、兄弟はともに政府のお雇い外国人として活躍し、日本政府からアレクサンダーは勲三等旭日中綬章を、ハインリッヒは勲三等旭日小綬章を授与されたが、父と並んで日本とドイツの交流の歴史を作り上げた。

⑤アレクサンダーとハインリッヒ2人の写真
個人蔵(Constantin von Brandenstein, Schlüchtern)
⑤アレクサンダーとハインリッヒ2人の写真 個人蔵(Constantin von Brandenstein, Schlüchtern)

このほか、展示ではペリー艦隊の随行画家であったハイネがシーボルトに宛てた手紙、ロシア政府が発行したシーボルトの旅券、幕府の外国奉行がシーボルトに宛てた手紙などをドイツから出品いただいた。いずれもシーボルトの足跡を伝える貴重な資料であり、今回の巡回展示で初めて公開されるものである。

⑥クニフラー商会商標 当館蔵
ドイツ系商社のクニフラー商会は幕末に創業し、ドイツ製機械などを販売し続けた。
現在も日本で活動を続けるイリス商会は同商会の業務を継承した会社である。
⑥クニフラー商会商標 当館蔵 ドイツ系商社のクニフラー商会は幕末に創業し、ドイツ製機械などを販売し続けた。現在も日本で活動を続けるイリス商会は同商会の業務を継承した会社である。

(西川武臣)

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