横浜開港資料館

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「開港のひろば」第131号
2016(平成28)年2月3日発行

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資料よもやま話
横浜海岸教会所蔵資料の公開にあたって

このたび、横浜海岸教会より寄託された同教会所蔵資料(以下、海岸教会資料)の整理が終了し、公開の運びとなった。公開にあたり、資料の概要を紹介したい。

横浜海岸教会の歴史

まず横浜海岸教会の140年を超える歴史について記しておきたい。文久元(1861)年に来日した改革派の宣教師バラ(James Hamilton Ballagh, 1832〜1920)は、明治元(1868)年、現在横浜海岸教会のある地に、小さな石の会堂を建てた(『ジョナサン・ゴーブル研究』川島第二郎著 新教出版社 1988年)。この建物は、礼拝のみならず、海員伝道の場となり、またバラの英語学校の講義室の役割も果たしていた。明治5(1872)年、禁教下ながら、バラの英語学校の生徒のうち九名が受洗し、先に受洗した2名とともに教会を創設した。日本最初のプロテスタント教会である日本基督公会の創設であった。明治8(1875)年、会員が増加し、石の会堂では手狭になったため、石の会堂の横に新たな会堂を新築した。この時日本基督横浜海岸教会と改称する。同年7月10日に行われた会堂の献堂式では、日本人の教会であることから、日本語(the language of the Dai-Nippon)の歌詞で賛美歌が歌われるなど、礼拝の一部は日本語で行われた(The Japan Gazette. 1875年7月12日号)。この会堂は、石の会堂と共に、関東大震災で被災・崩壊し、昭和8(1933)年、雪野元吉によって設計された現在の会堂が再建された。

日本基督公会は、横浜開港以後来日した長老派など六つの教派と一つの団体の会員により構成された。「公会規則 木版にせしもの」(請求番号は文書−2、 以下請求番号のみ( )で記載、資料1)の第二条例に「我輩ノ公会ハ宗派ニ属セズ、唯主耶蘇キリストノ名ニ依リテ建ル所」とあるように、公会は、いずれの会派にも属さない超教派の教会であった。

資料1 「公会規則 木版にせしもの」 (文書−2)
〔明治7年〕 横浜海岸教会所蔵・当館保管
資料1 「公会規則 木版にせしもの」 (文書−2) 〔明治7年〕 横浜海岸教会所蔵・当館保管

その後長老派は、日本長老会を組織し、明治7(1874)年に横浜長老公会(現、横浜指路教会)を設立した。明治10(1877)年、日本基督公会系の四つの教会(横浜海岸・新栄・上田・長崎教会)と日本長老会系の五つの教会(住吉町・露月町・法典・品川・大森教会)が合同し日本基督一致教会を創設した。日本基督一致教会は、明治24(1891)年に日本基督教会へ発展したが、昭和16(1941)に日本基督教団が成立し、合流消滅した。昭和20(1945)年10月に宗教団体法が廃止されると、横浜海岸教会は日本基督教団から離脱し、日本基督改革派教会に参加した。しかし昭和26(1951)年に新に日本基督教会(日本キリスト教会)が創設されるとこれに参加し、現在に至っている。

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