横浜開港資料館

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「開港のひろば」第129号
2015(平成27)年7月18日発行

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企画展
ハマを駆ける−クルマが広げた人の交流−
ハマを駆けた乗り物たち

企画展示「ハマを駆ける−クルマが広げた人の交流−」(明治・大正編)で注目いただきたいのは、横浜の街中を駆ける乗り物の変化である。江戸時代、人やモノの移動は、人間の足や馬の力に頼っていたが、開港とともに海外の文化が入ってくると、その様子は次第に変化していく。ここでは、浮世絵や絵葉書から変わりゆく乗り物の姿を追っていきたい。

駕籠から馬車・人力車へ

図1は横浜開港から6年後の1865(慶応元)年に刊行された『横浜開港見聞誌』の挿絵である。同書は絵師の五雲亭貞秀が記した案内記で、自身の目にした横浜の様子を絵と解説文で紹介している。本町6丁目(現・中区)を描いた図1には、「馬車にて走る」と、街を駆け抜ける馬車とともに、外国人を乗せた駕籠が描かれている。開港以前の日本の乗り物と、新たに西洋から入ってきた乗り物を比較することができ、興味深い。

図1 『横浜開港見聞誌』 五味亀太郎文庫 当館所蔵
図1 『横浜開港見聞誌』 五味亀太郎文庫 当館所蔵

当初、馬車は外国人の乗り物だったが、次第に日本人の間にも広がっていき、乗合馬車が運行されるようになる。また、それまで人力で動かしていた荷車を馬に変えた荷馬車も登場し、荷物の運搬に活用されるようになった。

図2で示す「横浜繁栄本町時計台神奈川県全図」は歌川国鶴が1873(明治6)年に描いた浮世絵である。時計台のある建物は町会所(現・中区/横浜開港記念会館所在地)、その左側は神奈川県庁(現・中区/横浜地方検察庁及び横浜法務合同庁舎所在地)で、人びとの行き交う道は現在の本町通りである。

図2 横浜繁栄本町時計台神奈川県全図 当館所蔵
図2 横浜繁栄本町時計台神奈川県全図 当館所蔵
図2−1 乗用馬車・荷馬車・輿
図2−1 乗用馬車・荷馬車・輿
図2−2 乳母車・人力車・荷車
図2−2 乳母車・人力車・荷車

この浮世絵には、多くの乗り物が描かれている。その一部を拡大したのが、図2ー1図2ー2である。前者には2台の馬車が確認でき、左側は人を乗せた乗用馬車、右側は荷物を乗せた荷馬車となっている。また、図の右上に描かれたのは、中国の上海租界などで用いられていた輿であろう。このように海外から入ってきた乗り物は、街中の交通手段として定着していった。

一方、後者では、荷車、人力車、乳母車などが確認できる。ここで注目したいのが人力車である。人力車の発明については諸説あるが、現在は和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の3人が1870(明治3)年3月に東京府に申請したのが最初とされる。おそらく発明者たちは、海外から入ってきた新しい乗り物を見て、人力車のヒントを得たのだろう。その後、人力車は爆発的に増加し、横浜から海外へも輸出されていった。

さて、もう一度、図2を見ていただきたい。様々な乗り物が描かれるなか、従来からあった駕籠は姿を消している。利便性が向上するなか、駕籠は馬車や人力車によって表舞台から追い払われていった。

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