横浜開港資料館

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「開港のひろば」第129号
2015(平成27)年7月18日発行

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企画展
ハマを駆ける−クルマが広げた人の交流−
ハマを駆けた乗り物たち

自転車の大衆化と自動車の登場

図3は大正期の本町通りである。ちょうど図2の通りを左側から右側に望む構図となっている。奥の時計搭は開港記念横浜会館で、1917(大正6)年7月に町会所の跡地に完成した。また、その手前、左側の建物は生糸検査所、ドームを有する右側の建物は横浜郵便局である。いずれも1923(大正12)年9月の関東大震災によって崩壊しているので、この図はそれ以前に撮影されたものだろう。

図3 大正期の本町通り① 絵葉書 当館所蔵
図3 大正期の本町通り① 絵葉書 当館所蔵

さて、通りに目を転じると、図2で示した明治初期と同様に、馬車や人力車を確認することができる。大きな違いは、通りの中心を自転車が走っている点で、広く普及している様子がうかがえる。

自転車が日本に入ってきた時期は正確にはわからないが、先に紹介した『横浜開港見聞誌』には、三輪自転車が描かれているので、横浜の居留地では早い段階から使用されていたのだろう。その後、尾上町に本店を構える石川商会が海外から積極的に自転車を輸入したほか、国産自転車も登場するなど、市民の生活の中に定着していった。

横浜市内の自転車数を『神奈川県統計書』から確認すると、数値が初めて登場する1903(明治36)年は778台であったが、明治末の1912年3月段階には、2,869台と約3.5倍に増加している。さらに関東大震災前の1922(大正11)年3月には、18,516台と、明治末の約6倍に膨れ上がった。馬車や人力車は自分以外の力を必要としたが、個人の力で動かせる自転車の普及によって、行動の自由は大幅に広がった。

他方、自転車と比べて数は少ないが、大正期に入ると、自動車も数を延ばし始める。図4は図3と同じ地点を撮影したものである。人や人力車が行き交う通りを1台の自動車が走っている。搭乗者の後姿から考えて、左側が運転手、右側がその主人であろう。自動車を避けない人や人力車の様子を見ると、道路の主役が自動車でないことがわかる。

図4 大正期の本町通り② 絵葉書 当館所蔵
図4 大正期の本町通り② 絵葉書 当館所蔵

大正初期、1913(大正2)年3月段階の横浜市内の自動車数は73台(自家用61台/営業用12台)だった。しかし、1922年3月には、334台(乗用291台/荷積用43台)と4.5倍に増えている。高価な自動車は外国人や富裕層の乗り物だったが、着実に横浜の街に定着していった。

自動車が道路の主役となるのは、関東大震災後である。復興の過程で多くの自動車が導入される。また、市内の道路も拡幅されていった。一方、馬車や人力車の役割は次第に自動車に奪われていくことになる。かつての駕籠と同様に、新しい乗り物が古い乗り物を駆逐していくのである。

(吉田律人)

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