横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第127号
2015(平成27)年1月28日発行

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資料よもやま話
横浜・ムンバイ姉妹都市提携50周年記念
山下町の旧インド人商館

今年2015年は、1965年に横浜市とムンバイ市が友好都市提携を結んで50年目となる。日本産絹織物の輸出などから始まり、横浜とインドとのつながりは深い。その交流の歴史を概観しつつ、現在も山下町に残るインド人ゆかりの建物を紹介したい。

パールスィーとシンディ

横浜に進出したインド人には、大きく分けて二つの勢力がある。最初にやってきたパールスィーは、ヒンドゥー語で「ペルシャ」を意味する人びとだ。イランからボンベイ付近に移住したゾロアスター教徒の末裔である。横浜では一八七〇年頃からイサボイ商会などが活躍し、日本産の絹織物を輸出し、染料の原料インディゴや米などを輸入した。

1893年に日本郵船とタタ商会がボンベイ(現ムンバイ)航路を開設すると、ベサニア、ゴーバイなどのパールスィーの有力商人が相次いで横浜で開業した。タタ商会は、現在もインドを代表する財閥だが、パールスィーである。

航路が整うと、シンディの進出が盛んとなる。シンディはシンド州のハイデラバード(現パキスタン領)に拠点を置いたヒンドゥー教徒である(1947年のインド・パキスタン戦争以後はムンバイを拠点)。アジア、南北アメリカ、アフリカなど世界各地にネットワークを張り、ビジネスを展開する人びとだ。横浜では、アッソムル、モトマル、チョットマルなどの商会が次々と開かれ、サリーなどの素材として、日本産の絹織物を盛んに輸出し、先来のパールスィーを凌いでいく。インド商館全体では、1895年頃には約10軒であったが、1915年頃には約30軒、1923年の関東大震災前には60軒ほどになっていた。

二度のラブ・コール

横浜はこれまでインド商人の呼び戻し策を二度講じている。横浜を去ったインド商人に、戻ってほしいとラブ・コールを送ったのだ。

最初は関東大震災後のことだ。震災で山下町が壊滅的な打撃を受け、インド商人のほとんどが神戸へ移転した。貿易を再開させ震災復興をはかりたい横浜の政財界は、その起爆剤としてインド商人を呼び戻そうと考えた。それは、彼らの商圏が、インド本国だけでなく、南洋諸国から南北アメリカなど世界各地に広がり、震災以前の横浜の絹織物輸出額の三割前後に達していたこと、また集団性の高い人びとで大挙しての復帰が望めること、などからである

横浜市の低金利融資を受けた日本絹業協会が、住居・店舗・倉庫一体型で、すぐに商売を始められるインド商人専用の建物を建設した。華僑が「インド屋敷」と呼んだその建物は、76番地、100番地、108番地、126番地、127番地など、中華街の辺りに建てられたものが多い。1940年頃には40軒ほどのインド商館があった。また震災時の救援に謝意を表し、横浜在住インド人が山下公園にインド水塔を建てたのも、この頃のことだ。

二度目のラブ・コールは、第二次大戦後のことである。戦争で日本を離れたインド商人を呼び戻すため、再び横浜市はインド商館の建物を用意した。総工費7100万円をかけ、24番地、74番地、95番地、156番地などに鉄筋コンクリート2階建ての住宅・店舗・倉庫一体型の建物を新築した。1952年8月に完成すると、ロクマル商会、ダヤラム商会、キシンチャンド商会などが、続々と横浜に戻ってきた。この二度の呼び戻し策は、震災復興、戦後復興という困難な時代に、横浜市が経済再興への大きな期待をインド商人に寄せていたことを物語る。

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