横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第127号
2015(平成27)年1月28日発行

表紙画像

特別資料コーナー
描かれた名峰・富士山

冬の時期、晴天に恵まれる横浜では、冠雪姿の富士山を各所から望むことができる。澄んだ空気も手伝って、富士山は円錐形の姿をはっきり浮かび上がらせている。おそらく、100年以上前の人びともそうした富士山の姿に魅了されたことだろう。富士山を被写体とした浮世絵やスケッチ、写真などからは、名峰に魅せられた様子がうかがえる。

図1は歌川広重が描いた「神奈川台石崎楼上十五景一望之図」である。東海道神奈川宿台町の茶屋石崎楼から眺望できる景色を一枚に描いたもので、神奈川の対岸に平沼、野毛、横浜、本牧等の地名が確認できる。そしてそれらの先には、富士山の姿が描かれており、「芙峯遙望」と書き記されている。遮るものの少ない時代、富士山は旅人のランドマークとして機能していたのだろう。。

また、日本を訪れた外国人たちも富士山の優美な姿に興味を抱き、その姿を書きとどめたほか、なかには踏破を目指す者も現れた。

図1
図1

図2はイギリスの初代駐日公使であったラザフォード・オールコックの著作『大君の都』に収められた挿絵の一枚である。山頂をめざす人びとが描かれている。オールコックは初めて富士山に登った外国人として知られる。

1860(万延元)年、富士登頂を企図したオールコックは、幕府の反対を退けつつ行動を起こし、9月4日(旧暦7月19日)に領事館のある神奈川を出発、東海道を西に進みながら登山道をめざしていった。オールコックはその様子を『大君の都』に詳しく記している。警護などを含め、富士山にむかう一行は100人ほどに膨れ上がったという。その後、11日から登頂開始、図2からは石の多い険しい登山道が確認できる。9月14日(旧暦7月29日)、オールコックは山頂に到着し、富士山の噴火口と下界を眺めている。苦難の上に見た景色は格別だったのではないだろうか。

図2
図2

そうした富士山に対する人びとの姿に思いを馳せながら、2月7日〜3月1日の特別資料コーナーでは、幕末から明治時代に描かれた富士山の姿を紹介したい。

(吉田律人)

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