横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第127号
2015(平成27)年1月28日発行

表紙画像

企画展
山手の丘を写した2枚のパノラマ写真

写真1 横浜市街地と牛坂沿いの山手を写したパノラマ写真
当館蔵 岡山洋二氏寄贈標
写真1 横浜市街地と牛坂沿いの山手を写したパノラマ写真 当館蔵 岡山洋二氏寄贈
写真2 山手本通り沿いの稜線を写したパノラマ写真
当館蔵 岡山洋二氏寄贈標
写真2 山手本通り沿いの稜線を写したパノラマ写真 当館蔵 岡山洋二氏寄贈

今回の展示では、岡山洋二氏より寄贈していただいた、横浜の山手を写した2枚のパノラマ写真を初公開することができた。ここで改めてご紹介したい。

2枚のパノラマ写真

2枚のパノラマ写真は、ともに縦181ミリ、横38ミリの台紙に、縦86ミリ、横298ミリの写真が貼られている小さなパノラマ写真である。
そのうち一枚(写真1)は、「Ishikawa & Ushi-Saka.Yokohama.」とタイプで打たれた紙片が台紙の下中央に貼られている。写真の左に横浜の市街が写っており、左端に中村川に架かる車橋(①)、その右側に翁橋(②)が写っている。市街地には、明治37(1904)年7月竣竣工の横浜正金銀行のドーム(③)と、本町通一丁目の町会所(④)がみえる。町町会所の建物は、明治39(1906)年12月に焼失したので、この写真は明治37年7月以降、同39年12月以前に撮影されたことになる。

写真右半分には、車橋に続く牛坂とその奥に山手の家々が写っている。牛坂を登り切ると左側、山手212番地には、明治4(1871)年に創立し、翌年の明治5(1872)年に校舎を移転して以来共立女学校(現横浜共立学園)があった。写真をみると、共立女学校のあるあたりに、明治37年11月竣工のドリーマス・ホール(⑤)が写っている。写真はドリーマス・ホールの竣工後に撮影されたと考えられるので、明治37年11月以降、町会所の焼失前の同39年12月までに撮影されたものであろう。なおこの写真を撮影した場所は、車橋のほぼ南側、打越(現横浜市中区)の高台から撮影されたと推定される。

もう一枚の長い丘陵の写るパノラマ写真(写真2)には、写真1と同様、「Missionary-Bluff. Yokohama.」とタイプで打たれた紙片が台紙の下中央に貼られている。

なだらかに続く丘の中央に大きな建物があり、その奥にドリーマス・ホール(⑥)が見える。手前の大きな建物は、聖経女学校である。聖経女学校は、明治12(1879)年にアメリカ・メソジスト監督教会が山手221番地に開設した美会神学校を引き継ぎ、同教会の婦人伝道師であるC・W・ヴァン・ペテンが、明治17(1884)年に開設した婦人伝道師養成学校である( ⑦)。その前に建つ建物は、山手222番地にあった同教会の宣教師館である( ⑧)。写真2は、「Missionary-Bluff.」という解説の通り、山手居留地の南東側に位置する聖経女学校、アメリカ・メソジスト監督教会の宣教師館、共立女学校のドリーマス・ホールを中央にし、山手の尾根を通る山手本通りに沿った町並みを写したものである。撮影地点は、柏葉(現横浜市中区)の高台から撮影したものと思われる。

横浜共立学園とドリーマス・ホール

横浜共立学園は、明治4(1871)年6月に米国婦人一致外国伝道協会(The Woman's Union Missionary Society of America for Heathen Lands, 以下WUMSと記す)が日本に派遣した3人の女性宣教師プライン、ピアソン、クロスビーによって、来日後の同年8月に創設された亜米利加婦人教授所に始まる。当初山手48番地に教授所を開設したが、翌年の明治5(1872)年10月には、山手212番地に移転した。同年校名を日本婦女英学校と変更し、明治8年共立女学校と改称する。昭和7(1932)年に財団法人横浜共立学園の設立が認可され、横浜共立学園と改称するまで、共立女学校と称した。

ドリーマス・ホール(写真3)は、共立女学校の校舎であり、前述したように明治37年11月に竣工した。宣教師であり、竣工当時、第二代総理であったクロスビーがWUMSに送った明治37年の報告書によると、従来使用してきた校舎は修復が不可能なほど傷んでいたが、「戦争(日露戦争)が勃発し、必要な資金の四分の一しか手元になかったので、近い将来夢が実現することはないと諦めていた。ところが1か月もたたないうちに、フィラデルフィアの友人から4千5百ドルの小切手が送られ」、新校舎建築に十分な資金を用意することができた。そこで校内の配置を変え、「女学校を元の神学校の場所に建て、神学校はバイブル・リーダーたちの寄宿舎に近い理想的な場所に建て直すことにした」。そして古い建物を壊す作業は明治37年5月3日に始まり、新しい建物は11月17日に完成し、献堂式が同月26日に行われたという(『横浜共立学園資料集』「横浜共立学園資料集」編集委員会編 2004年)。

建物は、共立女学校の設立母体となったWUMSの設立者で初代会長のサラ・P・ドリーマスの名を取り、ドリーマス・ホールと名付けられた。ドリーマス・ホールは、関東大震災で崩壊するまで、共立女学校のシンボル的な建物であった。

2枚の写真

ここで紹介した写真1・2は、体裁も同じであることから、同時期に撮影されたと考えられ、撮影時期はドリーマス・ホールの竣工から町会所焼失までの約2年間であると考えられる。ドリーマス・ホールが共に写っていることから、WUMSまたは共立女学校に係わる者による撮影ではないかと推測される。

なお写真1は、牛坂から共立女学校のある山手の南端の様子を写したもので、写真2は、かつて外国人居留地であった山下町側から山手を写したものではなく、山手をはさんでその反対側の柏葉・鷺沼方向から、山手本通りに沿った山手の稜線を写したものである。他に類似した写真が無いことから、非常に貴重な写真である。なお同時期の山手を写した写真が少なく、今の段階で写真に写る多くの建物を比定することは難しいが、今後の課題としたい。

今回貴重な2枚のパノラマ写真を寄贈してくださった岡山洋二氏には厚くお礼を申し上げます。また執筆にあたり、斉藤多喜夫、武田周一郎の両氏、青木祐介(横浜都市発展記念館)よりご教示を得ました。記して謝意を表します。

(石崎康子)

写真3 共立女学校のドリーマス・ホール
横浜共立学園所蔵
写真3 共立女学校のドリーマス・ホール 横浜共立学園所蔵

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