横浜開港資料館

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「開港のひろば」第127号
2015(平成27)年1月28日発行

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展示余話
愛知教育大学附属図書館所蔵
「チェンバレン・杉浦文庫書簡」から

図1 杉浦藤四郎
『日本学の先駆者 アーネスト・サトウとB.H. チェンバレン』
(愛知教育大学附属図書館、1994 年)より
図1 杉浦藤四郎 『日本学の先駆者 アーネスト・サトウとB.H. チェンバレン』(愛知教育大学附属図書館、1994 年)より

「近代日本学のパイオニアーチェンバレンとアーネスト・サトウ」展準備のため、愛知教育大学附属図書館所蔵「チェンバレン・杉浦文庫」を調査する機会を得た。

同文庫は、バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain1850 〜1935)の学僕となった岡崎市出身の杉浦藤四郎(1883 〜1968、図1)がチェンバレンから贈与された蔵書、書簡、身辺雑具、そして杉浦自身の蔵書から構成されている。

杉浦は、1905年、勤めていた横浜ユナイテッド・クラブ(幕末から戦後にかけて現横浜市中区海岸通りにあった欧米外国人男性たちの会員制社交クラブ)でチェンバレンと出会い、彼に同行して、アメリカやアジア諸国、ヨーロッパを訪れ、またその援助を受けてイギリス留学も果たした。。

同文庫の書簡全918点の多くは二人の出会いからチェンバレン没年の前年、1934年にかけてチェンバレンが杉浦に宛てた書簡であるが、チェンバレンの親族や友人たちからチェンバレンに宛てた書簡も含まれる。短期間ではとても充分な分析はできない資料群であるが、今回の展示で取り上げた友人たちとの交流のようすや横浜に関するいくつかの興味ある書簡を次に紹介したい。

戸田欣子を心配する

1910年6月に最後の来日を果たしたチェンバレンは翌11年3月、日本を離れ、終の棲家となるスイスのジュネーヴに落ち着いた。同年8月1日付で親友W・B・メーソン(William Benjamin Mason 1853〜1923)から次のような書簡が届いた。

明日、横浜へ戻り、雑用に専心するために2、3日居る予定です。[中略]今回はひどい強風が吹き荒れたことをお知らせしなければなりません。東京と横浜周辺を中心に吹き荒れ、多数の死者と被害が出ました。台町[戸田家のこと]も被害があり、そのおもなものは庭木の倒木でした。横浜の山手町104番地C[メーソン自宅]も庭木や塀、門等に被害が出ました。[中略]台町について、もうあなたが心配する必要はないと思います。そこに住むご婦人[戸田欣子]は、見たところ健康で幸せそうです。彼女が養育している少年たちは彼女のすべての関心を獲得しているし、また借家人も彼女に面倒をかけるようなことはありませんから。

メーソンはイギリス人電信技師で、1875年に工部省電信寮のお雇い外国人として来日し、第一高等学校でも英語を教えた。チェンバレンとは一緒に『日本旅行案内』を執筆した仲であり、家族ぐるみで付き合った。図2はメーソンの次男、ジェームス(James Day Mason)の結婚式の記念写真である。両親のメーソンと鹿子(花婿ジェームスの向かって左隣)、兄のW・B・メーソン・ジュニア(父メーソンの左後方の髭の人物)が写っている。メーソンはスイスのチェンバレンと手紙のやり取りをつづけ、日本の友人たちの消息を知らせたり、時にはチェンバレンの使いもしたりしていたようだ。1889年頃から99年頃にかけて戸田欣子家に住んだチェンバレンは、おそらく欣子のその後を案ずる書簡をメーソンに送ったのだろう。

メーソンは退職後、東京から横浜に一家で移り住んだが、横浜ユナイテッド・クラブで関東大震災に遭い、圧死した。山手の横浜外国人墓地に家族とともに眠る。

図2 ジェームスの結婚式の記念写真1917(大正6)年11 月25 日
当館所蔵「W・B・メーソン関係資料」より
図2 ジェームスの結婚式の記念写真1917(大正6)年11 月25 日 当館所蔵「W・B・メーソン関係資料」より

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