横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第127号
2015(平成27)年1月28日発行

表紙画像

展示余話2
愛知教育大学附属図書館所蔵
「チェンバレン・杉浦文庫書簡」から

第1次世界大戦下の横浜

メーソン夫人の鹿子(シカ、シカコ1857 〜1945)は旧名を金田トメといい、1887年、メーソンの長崎勤務時代に結婚した(ご子孫から寄贈された「W・B・メーソン関係資料」の「外国人へ結婚願」(写し)より。『日本学の先駆者 アーネスト・サトウとB・H・チェンバレン』13頁には、1877年結婚とある)。

鹿子は、メーソンが病気の時など、代わってチェンバレンに近況を知らせる書簡を日本語で書き送っている。その中の1915年2月23日付書簡を紹介しよう。

このたびの大戦争にて何地の国も困る人多く実に実に気の毒せん万の事と存じます。日本も何の商業もさっぱり不景気になり、まれに貿易輸出などかいむに付、事に横浜は取分け淋しくなり、山手などはあき家も沢山でき外国人は皆追々に本国へかい(え)る人多く、あき家ができてかりる人はなくそれで物価高くなるばかりで末にはどんなになる事かと案じて居ります。

1914年、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発すると日本も連合国側に加わってドイツに宣戦布告し、ドイツ東洋艦隊の拠点、中国の青島に派兵した。横浜の外国人社会では本国からの動員令を受け帰国する人も出て横浜を離れる人びとが相次ぎ、開戦前年に約3,800人を数えた横浜居住欧米外国人数は、16年には約2,100人に激減した。そのようすが横浜の外国人社会に暮らす日本人女性、鹿子の目線で描かれている。

関東大震災のニュースを聞いて

1923年9月1日におきた震災のニュースは遠く、スイスのチェンバレンの元にも届いた。それは9月4日のことであったようだ。この日、チェンバレンは杉浦宛てに友人たちの安否を気遣う次のような短い急信(図3)を、杉浦の実家、岡崎の住所に送った。

日本から受け取ったニュースはあまりに恐ろしすぎるものです。もし君が生きているのならば、君の家族やメーソン家、その他の人びとの安否の詳細を知らせてほしい。今日はこれ以上、書いても意味がないように思います。  敬具  チェンバレン  1923年9月4日、スイス、ジュネーヴ、オテル・リシュモンにて

図3 1923 年9月4日付、チェンバレンの急信
愛知教育大学附属図書館所蔵「チェンバレン・杉浦文庫書簡」より
図3 1923 年9 月4 日付、チェンバレンの急信 愛知教育大学附属図書館所蔵「チェンバレン・杉浦文庫書簡」より

9月22日のチェンバレン書簡

9月22日朝、杉浦から電報が届いた。「メーソンを除いて全員無事 All safe except Mason」というたった4語(英文)であったが、チェンバレンには待ちに待った報せであった(電文は、チェンバレンの杉浦宛て書簡、1923年11月20日付より)。すぐに杉浦に次のように返信した。

ありがたい!今朝届いた君からの電報は居ても立っても居られなかった私の不安を君に代わって終わらせてくれました。大災害から丸3週間、君からの連絡を待ちつづけた私はすべての希望を失っていたところでした。もちろん君が住む中野は東京でも比較的被害が大きくなかった地域だということがわかりましたが、日中君は家に居ず、東京のビジネス街に居たのではないかと心配になったのです。[中略]
 ああ、すべてが終わってしまいました。私は心静かに事の詳細が分かるのを待ちます。何かできることがあれば知らせてください。お金が必要ですか。必要ならば、金額を知らせてください。送ります。[中略]
 メーソンの死を私がどんなに悲しんでいるか、君なら分かってくれると思います。自分の心を半分もぎ取られたようです。メーソンを、また数カ月前には弟のヘンリー[同年三月に死去した三歳違いのすぐ下の弟]を喪い、ある意味で私は天涯孤独の身になってしまいました。少なくとも同世代では独りぼっちです。メーソン夫人に横浜のスチュワート氏を介して連絡を取ってみます。その境遇に対して何かできることがあるか、知りたいのです。彼女は凜としていて前向きな女性ですから、実に思慮深く振る舞っているに相違ありません。
 横浜は復興しないだろう、という噂が流れています。横浜を永久の存在として羨望のまなざしで見ていた私にとり、それは驚き以外の何ものでもありません。まだ東京港は港の機能を果たしていますか。まったくと言っていいほど、充分な水深がありませんからね。
 [追伸][生前の]メーソンからの便りがまだ毎週定期的に届ていて、もう一通来るはずです[これらの書簡は残っていない]。墓からのこの声に奇妙な、またとてもつらい気持ちを覚えます。メーソンがどのように亡くなったのか、私たちは一体それを正確に知ることができるのでしょうか。

メーソンとその家族との交流がどれほど親しいものであったかがよくわかる書簡である。メーソン没後、次男ジェームスがチェンバレンと書簡をやり取りするようになった。1930年の戸田欣子の訃報をすぐに寄こしてくれたのもジェームスであった。

横浜が復興しない、という噂がスイスのチェンバレンの元に流れてきた、という話も興味深い。震災により横浜港が壊滅的な打撃を受けたことで本格的な東京築港が始まるのであるが、それ以前の東京港(芝浦の日ノ出埠頭のことか)への言及も、チェンバレンの幅広い関心と知識、そして長年住んでいたことからくるのであろう東京への愛着を垣間見ることができる。

このようにチェンバレン書簡は、日本学者チェンバレンの研究だけでなく、他の面からのアプローチに対しても豊富な材料を提供してくれる資料群と言えよう。

(中武香奈美)

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