横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第126号
2014(平成26)年10月22日発行

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資料よもやま話
ジョセフ・ヒコと『海外新聞』

長崎時代のヒコ

当館が所蔵するヒコの自伝には、J・M・ジェームズが知人にあてた献辞が記されているものがある。そこに挟まれていたのが図3の写真である。

図3 長崎時代のヒコ
図3 長崎時代のヒコ

ジェームズは、幕末にジャーディン・マセソン商会の長崎支社社員として来日し、1872(明治5)年に海軍省に雇われ、測量調査や航海術などの指導を行なった人物で、ヒコと親交があった。写真の裏面には「Joseph Hecho 1866 (34) 34 years of age! The Author」と書かれている。

『ジョセフ彦記念会誌』42号(1997年12月)に掲載された「写真で追う彦太郎からジョセフ彦への60年」に、同じ写真が収録され、「長崎時代の彦である」と紹介されている。ヒコが横浜を去って長崎に向かったのは、1866年12月だった。自伝の12月29日の項目に、兵庫に着いた時、ジェームズが船長をつとめるジャーディン・マセソン商会の蒸気船エンペラー号が停泊していたことが書かれている。写真はその後、長崎でジェームズに贈られたものだろうか。裏面に書かれた年号が正しければ、ヒコが29歳の時のものである。翌1867年に、ヒコは木戸孝允や伊藤博文の訪問を受け、海外事情を語っている。

建言草案

ヒコは『海外新聞』の創始者というだけでなく、幕末から維新にかけて、日本の国家構想や国政改革を、幕府および維新政府の要人に提言していた。

1935(昭和10)年にパーシヴァル・D・パーキンスが、ヒコ未亡人浜田I子から資料を入手し、1961年にアメリカ・ニューヨーク州のシラキュース大学に譲渡したものが、同大学ジョージ・アーレンツ・ライブラリーに所蔵されている。その中に、ヒコの日本語文の建言草案類が含まれている。

当館の石井光太郎文庫には、『ジョセフ・ヒコの略歴及びその国政改革草案』(横浜史料調査委員会〔編〕、図4)がある。横浜史料調査委員会は、横浜市内における史蹟、名勝、史料其他に関する調査を目的として1934年3月に設置された。表紙に「弦間用」と書かれており、同会嘱託だった弦間冬樹の旧蔵書である。

図4 『ジョセフ・ヒコの略歴及びその国政改革草案』
図4 『ジョセフ・ヒコの略歴及びその国政改革草案』

1940年3月に書かれた序によると、当時外務省情報部嘱託だったパーキンスから横浜史料調査委員会が資料の提供を受けて上梓したものだという。

同書は「国政改革草案」の他に、「ジョセフ・ヒコの略歴」、「年表」、「漂流記」、「自叙伝抄」を加え、「問答」、「エントルポットー造立法」、「国益諸案」、「海軍規則」、「陸軍規則」、「存寄書」2件、「東京市街改革意見書」、「狩猟規則草案」、「長崎事変に就て」を収録している。

なお、「ジョセフ彦と横浜の新聞」展に際し、本書等を参考に、シラキュース大学所蔵の建言草案を翻刻したものを当館紀要に掲載した(佐藤孝「ジョセフ・ヒコの日本改革建言草案」『横浜開港資料館紀要』4号、1986年)。

ここに紹介した当館所蔵の資料は、10月26日まで常設展示室特別資料コーナーに展示している。

(上田由美)

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