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「開港のひろば」第126号
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企画展
近代日本学のパイオニア
−チェンバレンとアーネスト・サトウ
開港後に来日した外国人のなかに、自分たちのそれとは大きく異なる日本の文化や歴史に興味を持ち、研究を始める人びとが現れました。その多くは外交官や宣教師、お雇い外国人たちです。かれらは日本人と交わり、日本語を習得し、日本文化に親しみながら、日本や日本人を研究し、理解しようと努めました。
このジャパノロジスト(日本研究者)と呼ばれる人たちの中からさらに、日本の古典を原書で読み、本格的な研究成果をあげる優れた人びとが誕生しました。アーネスト・サトウとB・H・チェンバレン、W・G・アストンは明治期の3大ジャパノロジストと称されます。
サトウ(1843〜1929)は幕末にイギリス公使館付通訳生として来日し、その並外れた語学力で、日本語を会話だけでなく自由に読み書きできるまで習得しました。サトウの日本研究は外交官として必須のものでしたが、さまざまな分野にわたって日本研究を進め、大きな成果を残しました。通訳生として始まった外交官人生でも異例の昇進を果たし、1895年に駐日公使に、1900年には駐清公使に任じられました。
アストン(1841〜1911)はサトウより2年あとの1864年に同じく通訳生として来日し、やがて長崎と神戸の領事をつとめた後、朝鮮総領事に転出しました。86年に日本語書記官に昇進して日本に戻って来ましたが、89年に病のため外交官を辞めて帰国しました。日本時代に『日本口語小文典』や『日本文語小文典』などを発表し、帰国後、ロンドンで出版した『日本書紀』の英訳はジャパノロジスト、アストンの名を決定付けました。
チェンバレン(1850〜1935)は1873年にお雇い外国人として来日し、海軍兵学寮で英語を教えました。83年に代表的研究と称される『古事記』の英訳を出版しました。86年に帝国大学文科大学(後の東京大学)で外国人ながら日本語学と言語学を教え始め、多数の日本研究書・案内書を著しました。
本展示のおもな資料は、当館が所蔵する国内随一のサトウとチェンバレンのコレクションです。とくに戸田家旧蔵のチェンバレン関係資料は初公開となります。ふたりのジャパノロジストとしての活躍を、日本での暮らしぶりや、周囲の人びととの交流を通して紹介します。
(中武香奈美)