横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第126号
2014(平成26)年10月22日発行

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展示余話
生糸貿易を支えたスイス系商社

日本とスイスが通商条約を結んだのは文久3年12月29日(1864年2月6日)で、今年は通商条約締結150周年にあたる。当館では条約締結を記念して企画展「スイス使節団が見た幕末の日本」を開催し、条約締結交渉の様子や当時の日本の政治情勢を紹介した。スイスは日本と条約を結んだ8番目の国で、日本と近代的な外交関係を持ったもっとも古い国のひとつである。しかし、条約締結後、スイスの国民が日本人とどのような交流を繰り広げたのかについては案外知られていない。そこで、ここでは幕末に日本に進出し、生糸貿易に大きな足跡を残したスイス系商社の活躍を紹介すると同時に、スイス使節団が日本の生糸や蚕種(蚕の卵)に強い関心を持っていたことを紹介したい。

横浜開港と生糸貿易の開始

横浜が開港したのは安政6年(1859)6月2日で、貿易の本格的な開始は8月に入ってからであった。貿易は生糸の輸出から始まり、その後、茶や蚕種の輸出も増加した。この3つの品物は幕末から明治初年の日本の主要な輸出品であり、慶応3年(1867)には生糸が全輸出品価額の約50%を占め、蚕種が約20%、茶が約15%を占めた。これに加えて海産物・原綿・漆器なども輸出されたが、先の3品にくらべればはるかに少なかった。こうして日本は生糸・蚕種・茶の輸出から多額の外貨を獲得するようになり、輸出貿易から得られた外貨を使って近代化を成し遂げた。

幕末から明治初年の主要な生糸産地は、現在の群馬県、長野県、福島県、山梨県および東京都八王子市とその周辺地域で、生糸はこれらの地域からいくつかのルートを使って横浜に送られた。横浜に送られた生糸は、横浜の日本人輸出貿易商(売込商)の店に集荷された後、横浜の外国商館に販売された。さらに、その多くはイギリスのロンドンに送られ、最終的にフランスのリヨンを始めとするヨーロッパの絹織物業地帯で消費された。

横浜が開港した当時、ヨーロッパでは蚕の病気(微粒子病)が蔓延し、ヨーロッパの養蚕業・製糸業・絹織物業は大きな打撃を受けていた。そのためヨーロッパ諸国は病気にかかっていない良質な生糸を中国や日本に求めることになり、生糸は開港直後から日本を代表する貿易品になった。また、ヨーロッパ諸国は蚕種についても日本からの輸出を求めていたが、開港当初、幕府は蚕種の輸出を禁止していた。しかし、やがて幕府は諸外国の要求を拒みきれなくなり、慶応元年(1865)に蚕種の輸出を解禁した。こうして蚕種も日本の主要な輸出品となった。スイスが日本との通商条約の締結を求めて使節団を日本に送ったのは、生糸が主要な輸出品となると同時に、諸外国が蚕種の輸出解禁を求め始めた時期であった。そのため、条約締結後、日本に進出したスイス系商社はこぞって生糸や蚕種を扱うことになった。

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