横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第126号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第126号
2014(平成26)年10月22日発行

表紙画像

展示余話
生糸貿易を支えたスイス系商社

通商条約締結の過程で

スイス政府が日本に送った使節団は、エーメ・アンベール(首席全権)、カスパー・ブレンワルド、カイザー、ファーヴル・ブラント、バヴィエル、ブリンゴルフの六人であったが、彼らはいずれも日本の生糸と蚕種に強い関心を示した。たとえば蚕種については、今回の企画展示に出品したブレンワルドの日記(DKSH社所蔵)に、スイス使節団が蚕種を日本からスイスに持ち出そうとしたことを記した箇所がある。

この記述は通商条約が締結される直前のもので、使節団は将来の蚕種貿易の開始に備えて蚕種を見本としてスイスに持ち帰ろうとしたようである。しかし、当時、幕府が蚕種の輸出を認めていなかったため、日記には神奈川奉行所が容易には輸出を許可しなかったと記されている。この時、使節団が横浜で購入した蚕種の量は多くなかったが、使節団が日本の蚕種を輸出しようとしたことは、スイス使節団が有望な輸出品として蚕種を考えていたことを示している。

次に生糸についても、ブレンワルドの元治元年(1864)6月18日の日記に、彼が八王子周辺の養蚕や製糸の様子を視察した時の記述がある。日記には、蚕が桑を食べる様子、桑の木の様子、少女が繭から生糸を縒り出す様子が詳しく記されており、ブレンワルドが日本の養蚕や製糸に強い関心を寄せていたことを知ることができる。以下に日記を抜粋して紹介しておこう。

「今朝9時30分に最高の天候の中、馬で八王子に出発した。別当が馬の後からついてくる。道は鶴間と原町田を越えて木曽に続いており、11時に到着。2時間休憩時間を取って村の寺を見物し、1時にまた出発した。昼食に立ち寄った茶屋では蚕を飼っていた。1度目の脱皮をしたばかりの小さな蚕が藁にぴったりと付いている。藁の上には細かく刻んだ桑の葉がまいてあり、蚕がその上に置かれている。木曽から八王子へは見事な果樹園を通って上り下りする道だ。両側は桑の並木道だが、どれも大抵背が低く、葉は薄緑色をしている。(中略)田舎の方にも行ってみたが、木曽と同じ養蚕が行われている。生糸・製糸業、紡績業は非常に原始的だ。たとえば、ある家では4人の少女が蚕の繭から手で糸を縒り出しており、その糸を石炭の強火で加熱されている水で一杯の鉄製の釜に入れ箸で時々混ぜ、糸を小さな巻枠に巻き上げていくのだ。」

図1 ブレンワルドが訪れた頃の原町田の光景
(当館蔵、F.ベアト撮影)
図1 ブレンワルドが訪れた頃の原町田の光景(当館蔵、F.ベアト撮影)

≪ 前を読む      続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲