横浜開港資料館

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「開港のひろば」第126号
2014(平成26)年10月22日発行

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展示余話
生糸貿易を支えたスイス系商社

生糸貿易の発展とスイス系商社

条約締結後、スイス商人は続々と横浜に商社を開業した。ブレンワルドの日記によれば、最初に横浜に土地を持ったスイス人はレーダーマン、ペルゴ、モルフの3人で、彼らは元治元年(1864)6月下旬に店を建てるべき土地の取得に動き出した。また、使節団の一員であったカスパー・ブレンワルドも慶応元年(1865)冬にシイベルと共同でシイベル・ブレンワルド商会を設立し、翌年には横浜に社屋を構えた。その後も横浜ではスイス系商社の開業が相次ぎ、彼らは生糸の輸出や時計を始めとする精密器械の輸入に大きな位置を占めた。

図2 シイベル・ブレンワルド商会
(当館蔵、明治19年刊『日本絵入商人録』より)
図2 シイベル・ブレンワルド商会(当館蔵、明治19年刊『日本絵入商人録』より)

生糸貿易については、明治9年(1876)の外国商社の生糸扱い量を知ることができるが(拙著『幕末明治の国際市場と日本』雄山閣出版)、横浜から輸出された生糸約646トンの約5割が5軒の外国商社によって扱われている。トップはフランス系商社のヘフト・リリエンタル商会で全輸出量の約12%を輸出し、以下、イギリス系商社のストラチャン・トーマス商会が約10%、スイス系商社のシイベル・ブレンワルド商会が約9%、ドイツ系商社のグロッサー商会が約9%、スイス系商社のバヴィエル商会が約9%になっている。スイス系商社のシイベル・ブレンワルド商会とバヴィエル商会だけで全輸出生糸の約18%を扱っていることになり、生糸貿易にスイス系商社が大きな位置を占めたことが分かる。

図3 バヴィエル商会(当館蔵、明治19年刊『日本絵入商人録』より)
中庭に大量の生糸が集められている。
図3 バヴィエル商会(当館蔵、明治19年刊『日本絵入商人録』より)中庭に大量の生糸が集められている。

ところで、ブレンワルドが設立したシイベル・ブレンワルド商会は、彼の死後、明治32年(1899)にシイベル・ウォルフ社と社名を変え、明治39年(1906)にはシイベル・ヘグナー社になった。また、現在、日本で活躍するDKSHジャパン株式会社はシイベル・ヘグナー社の業務を継承している。既に生糸貿易の隆盛は過去のことではあるが、ブレンワルドが設立した商社は幕末・明治を通じて生糸貿易を支え続けた。明治36年(1903)、大日本蚕糸会はその功績を賞して、シイベル・ウォルフ社に賞状を授与した。最後にこの賞状を紹介し、当時のスイス系商社の活躍を偲びたい。

「横浜開港ノ初ヨリ商会ヲ同地ニ設ケ生糸輸出ノ業ニ従事シ、我政府ニ進言シテ生糸ノ改良ヲ促シ、小野組ヲ勧誘シテ欧式ノ製糸器械ヲ創設セシメ本邦ニ欧式ノ製糸器械アル是ヲ嚆矢トス。又、当時主ニ糸ノ販路ハ英国ノミニ局限セラレシガ米国ノ将来一大製絹国タルへキヲ予想シ、同国ニ向テ生糸ノ輸出ヲ企図セリ。是レ本邦生糸ヲ米国ニ輸出スルノ濫觴ナリトス。爾来拮据経営、生糸貿易ノ発達ニ貢献シ、今ヤ其生糸販路、米仏瑞伊独ノ五箇国ニ亘リ、一歳ノ輸出額一千万円ニ達セリ。以テ其業務ノ盛大ナルヲ観ルへク其斯業ノ為ニ尽瘁セル労功、亦著大ナリト謂フべシ。仍テ本会功績表彰規則ニ依テ金賞牌ヲ贈与シ以テ其功績ヲ表彰ス。大日本蚕糸会長、正三位勲一等、男爵松平正直」

(西川武臣)

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