横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第126号
2014(平成26)年10月22日発行

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資料よもやま話
ジョセフ・ヒコと『海外新聞』

漂流民として

救助された栄力丸の乗組員たちは1851年にサンフランシスコに到着し、帆船ポーク号に乗り換えて同地に滞在した。日本からの漂流民は話題になったらしく、ボルチモアの写真家H・R・マークスにより、乗組員たちの銀板写真(ダゲレオタイプ)が作成された。日本人が被写体になった、最初の銀板写真であった。現在、横浜美術館、川崎市市民ミュージアムが所蔵する各2点、日本カメラ博物館、ピーボディ・エセックス博物館が所蔵する各1点と、個人が所有するヒコの写真の合計7点の存在が知られている。

それらの写真をもとに、1853年1月22日付ニューヨークの絵入週刊紙『イラストレイテッド・ニューズ』(Illustrated News 同紙については、伊藤久子「アメリカの絵入り週刊紙が伝えた日本像」『横浜開港資料館紀要』23号、2005年所収を参照)に、乗組員の肖像が大きく掲載された(図1)。上段左から2人目がヒコである。

図1 日本人の船乗りたち
図1 日本人の船乗りたち

53日間に及ぶ漂流について、外国生活によって日本語を記すことが難しかったヒコは、帰国後1863年に口述筆記により『漂流記』を刊行している。

『海外新聞』発行

『海外新聞』に関しては、拙文「ジョセフ・ヒコ『海外新聞』」(『開港のひろば』108号、2010年)でも紹介した。当初の名称は『新聞誌』で、のち『海外新聞』と改題した。イギリスを主とする外国の郵便船から新聞を入手し、翻訳して国別に編集、横浜のニュースや広告、「アメリカ史略」など海外の歴史も掲載し、月2回程度発行した。現在の新聞とは異なり、和紙に木版刷りの冊子型のもので、手書きの時期もあった。発行に当たっては、ヒコが要点を口述し、岸田吟香が仮名交じりの文章にして、本間清雄が和紙に書き写した。

創刊年については、1865(慶応元)年とする説もあるが、ヒコの日記をもとにまとめられた自伝の1864年6月28日の項目には、「今月中に、私は『海外新聞』を創刊した。木版刷りの日本語新聞で、外国のニュースを要約してのせている。これは、日本語で印刷されて刊行された最初の新聞であった。この新聞は今日から私が長崎へ去るまで−約二年間つづいて刊行された」(『アメリカ彦蔵自伝二』東洋文庫22、平凡社、1964年)と書かれている。

当館所蔵の『海外新聞』(図2)は、西川道善氏より寄贈を受けた。明治初年に長崎から横浜に移住し、商業にたずさわった四代前の西川勇八郎が入手し、道善氏まで代々受け継がれたものである。1号から12号、18号から24号までの木版印刷のナンバーが合冊されている。

図2 『海外新聞』
図2 『海外新聞』

木版部分に関しては、ヒコ旧蔵で現在早稲田大学図書館所蔵(洋学文庫勝俣本)の同紙と同じナンバーである。13号から17号までと25号、26号は、木版の所蔵が確認されていないので、この部分は手書きで発行されたのかも知れない。

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