横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第126号
2014(平成26)年10月22日発行

表紙画像

企画展
「近代日本学のパイオニア」
−武田家と戸田家の寄贈資料から−

ハーンの見た戸田家

怪談の翻訳で知られる、イギリス人で後に日本国籍を取るラフカディオ・ハーン(日本名、小泉八雲)は、1890年にアメリカの出版社の通信員として来日した。来日直後にハーンがチェンバレンを訪ね、交流が始まった。やがて疎遠となるが、当初はたいへん親しい関係が続き、ハーンは松江や熊本での教師の職をチェンバレンに推薦してもらった。94年7月、熊本から上京したハーンはチェンバレンの留守宅(箱根宮ノ下の富士屋ホテルに滞在中)の戸田家で過ごした時のようすを、チェンバレン宛ての書簡に書き残している(西脇順三郎・森亮監修『ラフカディオ・ハーン著作集』恒文社、第15巻)。このことをご教示くださったのは愛知教育大学在職中に「チェンバレン・杉浦文庫」の整理・分析に尽力された荒川邦彦氏である。ハーンの書簡を借りて、戸田家のようすを垣間見ることにしよう。書簡はThe Japanese letters of Lafcadio Hearn, ed. by E. Bisland, Boston, 1910で原文を確認し、訳は『小泉八雲全集』第10巻(第一書房、1931年)を参考にした。

7月17日、戸田家を訪れたハーンを「お宅では総てが私を待ってくれていましたが、犬が門口まで走って出て、最初に私と近付きになりました。今私がこれを書いている一挙一動をじっと見ています。…戸田氏は親切すぎて、私のために骨を折りすぎます。…彼は英語が話せます」(7月17日付)。 「2階のあの蚊帳を吊った部屋で、私はあの堅い枕だけ使っています。気持ちよくて涼しいです。…戸田は料理が上手ですが、おいしい料理を私のためにあまりに作りすぎます。そんなに骨を折らないよう、料理の皿数を制限するよう、彼に言わなければなりません。彼がいれてくれるコーヒーは(私はブラックで飲みますが)じつにおいしいです」(7月21日付)。

戸田氏(Mr. Toda)は英語ができ料理をするなどチェンバレンの身の回りの世話をしていたようだ。犬は写真(図4)の欣子が抱いている犬だろうか。ハーンだけでなくチェンバレンにとっても居心地のよい家であったにちがいない。

戸田家の招待客

この戸田家で、チェンバレンと友人たちが、ハーンを喜ばせたようなおいしい食事を楽しみながら日本や日本人について、その研究成果や、あるいは体験を語り合った光景が想像できるが、実際にそのようすを物語ってくれる資料が戸田家には残されていた。陶製席札(図7)10個と、「B・H・C」(チェンバレンのイニシャル)の縫い取りのある大判のテーブルクロス、そして西洋大皿やグラスセットといった食器類である。

【図7】陶製席札 手前の席札にはフェノロサの名前が読める
【図7】陶製席札 手前の席札にはフェノロサの名前が読める
【図1】〜【図3】は、当館蔵「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料」から
【図4】〜【図7】は、当館蔵「戸田家旧蔵バジル・ホール・チェンバレン及び戸田欣子関係資料」から

席札にはフェノロサ、ベルツ博士、ビゲロー博士、ブリンクリー大尉、エドウィン・アーノルドといった名前が残っていた。アメリカ人のフェノロサとビゲローは岡倉天心を連れて日本美術を訪ね歩き、その価値を高く評価して西洋に紹介した。ドイツ人医師ベルツは東京医学校(現在の東大医学部)で教えた。招待客はその都度変わるため、書き換えがきくようなもので名前を書いたのであろう。消えかかっている文字もある。

チェンバレンの日本での暮らしぶりを伝えるこのような多数の資料を紹介する展示は、おそらく今回が初めてであろう。

長い間、これらの資料を大切に守ってこられ、当館にご寄贈くださった武田澄江・林静枝ご姉妹と、戸田武夫ご夫妻に、心より感謝を申し上げます。また戸田家調査に同行してくださった吉良芳恵氏(日本女子大学)、資料の整理に協力してくれた武田周一郎さんと居宏枝さんにも、お礼を申し上げます。

(中武香奈美)

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