横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第126号
2014(平成26)年10月22日発行

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企画展
「近代日本学のパイオニア」
−武田家と戸田家の寄贈資料から−

チェンバレンの資料

戸田家旧蔵のチェンバレン関係資料は今回が初公開となる。戸田家とは、チェンバレンが1889年頃から99年頃にかけての約10年間、住まいとした東京の赤坂台町一九番地(現在の港区赤坂7丁目、稲荷坂近く)にあった戸田家のことであり、欣子(きん、雅号は艶子)は女主人である(図4)。欣子の名前は『チェンバレン・杉浦文庫書簡目録 改訂版』(愛知教育大学附属図書館、1992年)の解題中に、チェンバレンが離日後も気遣った人びとのひとりとして紹介されている。寄贈者の戸田武夫氏は欣子の孫にあたる。武夫氏の父、三郎は欣子の養子であった。

【図4】犬を抱く戸田欣子 1889年3月
【図4】犬を抱く戸田欣子 1889年3月

戸田家と武田家の交流

戸田欣子とチェンバレンが出会った時期ははっきりしないが、青山墓地の戸田家墓所には、明治19(1886)年11月18日付で建立された墓碑の側面に王堂(チェンバレンの日本名、名のバジル・ホールに由来する)作の和歌、「萩分くと迷ひいぬけん老人の影さえみへぬ野辺の朝露 王堂」が刻まれている。

この年4月、チェンバレンは帝国大学文科大学(現在の東京大学)で教え始めていた。また住まいも友人サトウ(当時、バンコク駐在総領事)の家族、武田家が飯田町(現在の千代田区富士見1丁目、日本歯科大学のあたり)から富士見町(現在の同富士見2丁目、法政大学80年館(図書館)のあたり)へ移転した際、空いた飯田町のサトウ邸を武田家から借りて88年まで住んだ。出会いはこの頃、あるいはもっと早いかもしれない。

【図5】戸田家か。中央に座っている人物はチェンバレンか
【図5】戸田家か。中央に座っている人物はチェンバレンか

欣子が武田兼と、おそらく長男の栄太郎であろう男の子と一緒に撮った写真(図6)が戸田家に伝わっていた。両家は親しく行き来していたようだ。

【図6】左から武田兼、戸田欣子、武田栄太郎か 鈴木真一撮影
【図6】左から武田兼、戸田欣子、武田栄太郎か 鈴木真一撮影

1910年に次男久吉がイギリス留学する際には欣子が横浜まで見送りに来ている。寄港地神戸から久吉が出した礼状や、イギリスから送った写真も保管されていた。

当館では2007年秋、戸田家からチェンバレンと欣子に関する多数の資料を預かり、今年整理が終了して正式に寄贈を受けた。総点数は2,322点にのぼった。多くが欣子の嗜んでいた和歌・俳諧の色紙・短冊類であったが、なかにチェンバレンが詠んだ和歌もあり、数点は自筆と思われる。この他に史料(文書・絵葉書・写真他)約500点、和本約50冊、チェンバレンが使用した、あるいはそう考えられる明治時代の日用品約130点がある。和本の中には「英王堂」の蔵書印のある、チェンバレンの和歌の師、女流歌人の橘東世子編輯『明治歌集』がある。

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