横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第125号
2014(平成26)年7月16日発行

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資料よもやま話
関東大震災と東海道線

東海道線の被害と復旧

それではアルバムに収められた写真をいくつか見ていきたい。神奈川県内の鉄道の被害状況を撮影した写真には、先に挙げた『国有鉄道震災誌』以外に、同じく鉄道省の東京鉄道局工務課のまとめた『関東地方大震火災写真帳』(1924年)や神奈川県の発行した『大正十二年九月一日大震災写真帖』(1923年)があるものの、今回整理したアルバムには、それらに含まれていない写真も確認することができた。

当時の東海道線は現在と路線が異なっており、国府津−沼津間は箱根の山を避けるため、御殿場方面へ迂回するルートをとっていた。現在のJR御殿場線にあたる路線である。一方、物資輸送の効率化を図るため、熱海方面から沼津に抜けるルートが検討される。大正9(1920)年10月、国府津と小田原を結ぶ熱海線が開通し、順次、線路を西へ延ばしていった。これが現在の東海道線の路線となっている。大正12(1923)年9月の段階では、国府津から真鶴までが開通していた。

東海道線や熱海線は震源域の真上にあったため、他の路線と比べて大きな被害を受けた。特に開業間もない熱海線の小田原−真鶴間では、図3のように各所で土砂崩れが発生し、根府川駅も土石流に巻き込まれている。ここでは到着間際であった列車が海へ押し流され、100人以上が犠牲となった。また、東海道線の御殿場へ抜けるルートでも土砂崩れが発生し、車両の通行を困難にした。

図3 根府川−真鶴間で土砂に埋没した機関車
図3 根府川−真鶴間で土砂に埋没した機関車

加えて、馬入川(相模川)や酒匂川では、橋梁が大きな被害を受けている。馬入川橋梁は橋脚の大部分が崩れたほか、酒匂川橋梁は、図4のように、橋桁の一部が横転している。

図4 酒匂川橋梁の被害
図4 酒匂川橋梁の被害

こうした各所の被害によって東西を結ぶ太平洋岸の大動脈は寸断されたが、鉄道省の技術者たちの活動によって順次復旧していった。木村の残したアルバムはそうした過程を物語っている。

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