横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第125号
2014(平成26)年7月16日発行

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展示余話
原富太郎と原富岡製糸場

青木富太郎の原家入婿

横浜屈指の生糸売込商である亀屋・原善三郎が、孫娘・屋寿(やす)の婿として、屋寿の跡見女学校時代の教師であった青木富太郎をむかえたのは、明治24(1891)年6月である。その後二人の間に、善一郎・春子・良三郎・照子が生まれ、29年に長男善一郎は善三郎の養嗣子となった。

生糸売込高の筆頭であった野澤屋茂木保平(初代惣兵衛)が明治27(1894)年に亡くなると、善三郎は売込高で急速な巻き返しをみせ、横浜第一の座についた。そして32年、後事を富太郎に託して72歳で世を去った。

原富太郎の取り組み

亀屋・原商店の実質的二代目となった富太郎は、生糸売込業のほか、明治33(1900)年には絹物輸出業を兼営して、原商店を「原合名会社」に改組する。翌34年には生糸輸出業を始める。そして、35年9月には三井家が経営していた、富岡製糸場・名古屋製糸場・大(おおしま)製糸場(栃木)・三重製糸場を引き継いだ。

このうち、三重製糸場は1年を経ずして、四日市室山の伊藤小左衛門に売却され、大凾ヘ設備の老朽化した大正4(1915)年に廃業となる。残る富岡・名古屋の両製糸場と、善三郎から継承した明治20(1887)年開業の渡瀬製糸場(埼玉、のち富岡の分工場となる)は、原富太郎が最晩年までかかわる製糸場となった(生糸売込商の製糸業への進出については、『開港のひろば』54号(PDF 9.4MB)55号(PDF 8.4MB)の拙稿を参照)。

日本製糸業−波乱の時代

富太郎が製糸家として生きた20世紀前半は、日本製糸業にとって、波乱に満ちた時代であった。

アメリカ向け輸出の比重を高めつつ成長をとげた日本製糸業は、人造絹糸レーヨンの実用化にともない、もっとも低廉な原料糸供給先である洋服の裏地や織物の縦糸からしめだされる。このことを背景に、1900〜10年代には在来の手工業によって生み出される座繰糸が輸出品として適合しなくなり、座繰糸産地は、器械製糸への原料繭供給地へと変わってゆく。

大正3(1914)年、第一次世界大戦の勃発によって、生糸価格は一時的な暴落をみるが、その後のアメリカの好景気に後押しされて、未曾有の高糸価の時代が到来する。そしてその高糸価時代は大正9(1920)年初頭まで続くことになる。大戦景気によって生じた人手不足は、アメリカ女性の社会進出をうながした。それまでロングスカートが中心であった女性のファッションは、活動的なミニスカートへと転じ、薄手のフルファッションストッキングの用途が日本生糸の前に開かれる。織物から薄地の編物へ。しかし、細い生糸を編み上げるストッキングは、縦糸・横糸で組成される織物より、太さムラの少ない、より高品位な生糸を必要とした。輸出生糸の最低ラインで、器械糸価格の基準であった、長野県諏訪地方の「信州上一番(しんしゅうじょういちばん)」糸が、次第に輸出に不合格となり、経営が行き詰まった製糸家に、1920年恐慌とその後の景気の長期低迷、関東大震災による保管生糸の焼失が追い打ちをかける。そのようななか、日本の製糸業は品質の不断の改良要求に応えつつ、対米輸出量を増やしていった。

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