横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第125号
2014(平成26)年7月16日発行

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資料よもやま話
関東大震災と東海道線

昨年、横浜都市発展記念館及び横浜市史資料室と共同で行った関東大震災90周年事業では、各施設の展示会だけでなく、連続講座や公開講演会、歴史散歩などの関連イベントに多くの方に足を運んでいただいた。そして、90年前に発生した大規模災害の状況について知っていただくことができた。それと同時に、震災に関する資料の寄贈や情報提供も多数あり、関東大震災100周年にむけた新たな蓄積もできた。その内容は機会をみて紹介していこうと思うが、今回はその一端として、河邊啓太郎氏からご提供いただいた2冊のアルバムについて紹介したい。

アルバムの来歴

資料との出会いは、昨年8月に神奈川大学・大学資料編纂室の齋藤研也氏からいただいた電話に始まる。大阪在住の方から関東大震災時の鉄道の様子を収めたアルバムを送っていただいたので、内容を確認してほしいとのことであった。早速、資料を確認したところ、図1のように、2冊のアルバムに300枚を超える震災関係の写真が綴られていた。よく見ると、東海道線や熱海線の被災・復旧状況を記録した写真であった。

図1 「関東大震災鉄道復旧工事写真帳」
B(上)と同A(下) 河邊啓太郎氏寄託・当館保管
図1 「関東大震災鉄道復旧工事写真帳」 B(上)と同A(下) 河邊啓太郎氏寄託・当館保管

すぐに齋藤氏を介して所蔵者である河邊啓太郎氏に連絡し、当館で整理させていただくことになった。また、後日、河邊氏から追加の資料もお送りいただいた。こちらにも「技術資料 山陽線複線工事 関東地震関係」というアルバムがあった。重複する写真や山陽線関係の写真が一部含まれているものの、全体で154枚の関係写真が綴られている。つまり、先の2冊と合わせて450枚を越える震災関係写真が確認できた。

最初にお預かりした2冊のアルバムには、資料のタイトルが付されていないため、便宜的に「関東大震災鉄道復旧工事写真帳」という資料名を付し、それぞれAとBの記号を付して区別した。前者には171枚、後者には134枚の写真が収められている。2冊の最大の違いはBのアルバムには撮影地点が付されているのに対し、Aのアルバムにはそれがない点である。しかしながら、Aの写真と同じものを鉄道省編・発行『国有鉄道震災誌』(1927年)でも確認できるので、他の資料と照合することで、撮影地点の特定が可能である。

さて、河邊氏からの情報に依れば、アルバムの原所有者は河邊氏の曽祖父にあたる木村義麿という人物である。詳しい来歴は不明だが、大正13(1924)年7月1日現在の印刷局編・発行『職員録』を確認したところ、鉄道省国府津改良事務所の技手に「木村義麿」の名前を確認することができた。大正12(1923)年12月1日、鉄道省は東海道線及び熱海線の復旧工事を担う工務局派出所を国府津に設置、同派出所は翌年4月1日に改良事務所に昇格し、東海道線や熱海線の復旧工事を担うことになった。木村はその作業に従事した技術者の一人であった。

図2は「関東大震災鉄道復旧工事写真帳」Bに収められている1枚である。大正13年6月9日に根府川駅で撮影された。写っている人物たちは工事に携わった鉄道省の関係者で、前列左端のカメラを持つ人物は国府津改良事務所の加賀山学所長、その右から鉄道省工務局保線課の黒河内四郎課長、国府津改良事務所の青山秀雄技師、吉原美作技師、国府津保線事務所の長屋修所長、大石大助技師と続き、後列は国府津改良事務所技手が並んでいる。このうち、左端の制服姿の人物が木村である。

図2 復旧作業に従事した鉄道省の職員
図2 復旧作業に従事した鉄道省の職員

おそらく木村は自らが復旧に関わった東海道線や熱海線の写真を仕事の過程で入手したのだろう。そして、それがご子孫の手元で大切に保管された結果、今日に至ったと考えられる。写真の状態は極めて良好で、鉄道の被災状況とともに、復旧の過程を窺い知ることができる。

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