横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第125号
2014(平成26)年7月16日発行

表紙画像

企画展
カスパー・ブレンワルドの日記から
−スイス人青年の見た幕末の世界と日本−

スイス使節団の一員であったブレンワルドは大変筆まめな人物で、使節団員としてスイスを出発した時から横浜で商売をしていた1878年までの約15年間に及ぶ5冊の日記を残している。記述はほぼ毎日あり、一部分、英語やフランス語の箇所もあるが、ほとんどが美しいドイツ語で記されている。現在、当館ではDKSH社の協力を得て日記の複製を入手し、外交と貿易に大きな役割を果たしたブレンワルドの事跡を明らかにするための翻訳作業を進めている。翻訳は当館の専門職と外部の研究者で構成される研究会(横浜史料調査研究会、代表は日本女子大学教授井川克彦氏)がおこない、現在、1865年12月31日までの日記の翻訳が完了している。すべての日記の翻訳が終わるのはまだまだ先のことで残された課題も多いが、現在までに翻訳が終了したものについては当館の閲覧室で翻訳を公開している。日記は大部であり、そのすべてをここで紹介できるわけではない。しかし、日記は日本とスイスとの交流の始まりがどのようにおこなわれたのかを知るための一級資料であり、ここではスイス使節団が幕府と通商条約を結ぶまでのできごとを、日記を抜粋しながらいくつかを紹介したいと思う。

通商条約が締結された日(1864年2月6日)のブレンワルドの日記
DKSH社(DKアーカイブ)所蔵
通商条約が締結された日(1864年2月6日)のブレンワルドの日記 DKSH社(DKアーカイブ)所蔵

スイスから日本への行程で

ブレンワルドが遣日使節団の参事官兼書記官に任命されたのは1862年12月10日(文久2年10月19日)で、日記はこの日の記述から始まっている。その後、彼はベルンを出発し、20日にフランスのマルセイユからイギリスの蒸気船ユークシン号に乗って日本に向かった。地中海のマルタ島を経由してエジプトのアレクサンドリアに到着したのは26日で、この地から鉄道でスエズに向かい、28日にはスクリュー船オリッサ号に乗り換え、インドのボンベイ(現在のムンバイ)に向かった。1863年1月14日にはボンベイでイギリスのP&O汽船会社のコロンビア号に乗船した。その後、ブレンワルドは船を乗り換えながらシンガポールに向かい、2月1日にシンガポールに到着した。

シンガポールではスイス使節団首席全権のエーメ・アンベールの到着を待ち、ブレンワルドは2月18日にアンベールと合流した。こうして6名のスイス使節団はサイゴン(現在のホーチミン)から香港・上海を経て長崎に到着した。長崎到着は1863年4月9日(文久3年2月22日)で、スイスを出発して約4ヶ月の行程であった。ブレンワルドは長崎からアンベールに先立ち横浜に向かうことになり、4月12日に長崎を出港し19日からは横浜での幕府との交渉が始まった。

日記にはこの間のできごとが詳しく記されているが、興味深い記述はアジアの国々でドイツ語を話すドイツ系やスイス系の人々が活発な商業活動を繰り広げていることである。使節団一行は日本に向かう旅程でドイツ語圏の人々と密接に交流し、彼らに支えられながら旅行をしているように感じられる。紙数の関係ですべてを紹介できないが、シンガポールでの様子を記した日記を抜粋してみたい。「午後5時頃、ベーン・マイヤー社(ドイツ系商社)のマイヤー氏が馬車で迎えに来てファーブルと一緒に夕食をご馳走になった。夜はドイツ人とスイス人によるチャリティーコンサート。入場料は2ドルだった。ここに住んでいるスイス人青年は次のとおり。プットファンケル・ライナー社のリートマン氏、ビュージング・シュレーダー社のレーマン氏、レメ・レヴェソン社のゴールドシュミット氏、ラウテンベルク・シュミット社のシュトゥルツェンエガー氏とトロル氏。」ここに記された商社や人々がどのような活動をしていたのかについては今後検討する必要があるが、日本とスイスが通商条約を結ぼうとしていた頃、アジアではドイツ語圏の人々がしっかりとしたネットワークを作りあげていたようである。

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