横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第125号
2014(平成26)年7月16日発行

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企画展
カスパー・ブレンワルドの日記から
−スイス人青年の見た幕末の世界と日本−

井土ヶ谷事件とブレンワルド

スイス使節団が来日した頃、日本では攘夷事件が続いていた。1863年1月31日(文久2年12月12日)には長州藩の高杉晋作らが品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ちした。また、6月25日(文久3年5月10日)には長州藩が関門海峡でアメリカ商船を砲撃し、同藩は7月11日までの間に3回にわたって外国船を砲撃した。これに対し7月16日にはアメリカ軍艦が、20日にはフランス軍艦が同藩に来襲し、砲台に砲撃を加えた。さらに、8月15日には鹿児島湾において生麦事件の処理をめぐり薩摩藩とイギリス艦隊が激しい戦闘を繰り広げた。

横浜では1863年10月14日(文久3年9月2日)に井土ヶ谷村(現在、南区井土ヶ谷)においてフランス駐屯軍のカミュ少尉が攘夷派の浪士に斬殺される事件が発生した。事件は大きな外交問題に発展し、事件後、各国軍隊が居留民を保護するため、横浜近郊を巡回する事態となった。ところでブレンワルドの日記には、彼がカミュ少尉と親しく交際していたため、事件についての詳しい記述がある。日記を読んでいるとスイス使節団が来日した当時の外国人が置かれた厳しい状況がよく分かり、以下に日記を抜粋してみたい。

「午後4時頃、居留地はヨーロッパ人が殺されたという知らせで驚愕した。ただちにすべての各国領事が飛び出してきた。そして、殺されたのがアフリカ第3猟歩兵団のあわれなカミュ少尉だということを聞いて、遺憾の念にかられた。カミュはほとんど毎晩のように僕らのところにやってきたし、今日も午前11時頃、僕のところに来て、司令官と狩に行きたいのだが猟銃を貸してくれないかと尋ねたばかりだった。僕は自分で銃を持っていないので残念ながら貸してやれず、カミュはそのままたった1人で横浜に近い谷の方へ馬で出かけていったのである。そこは外国人が毎日のように何の心配もなく拳銃も持たずに散歩している所なのに、カミュは3人の暴漢に襲われ、刀で滅多切りにされた。5時頃、遺体は横浜に着いた。」

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