横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第125号
2014(平成26)年7月16日発行

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企画展
カスパー・ブレンワルドの日記から
−スイス人青年の見た幕末の世界と日本−

通商条約が締結された日の日記

日記の内容は多岐にわたり、問題関心によって興味を覚える記述は人それぞれであろう。そのため、日記を読みたいと思われる方には当館の閲覧室で翻訳を読んでいただくしかないが、ここでは最後にスイス使節団が江戸で初めてスイス国旗を掲揚した日の日記とスイスと日本が通商条約を結んだ日の日記を紹介したい。まず、国旗の掲揚であるが、スイス使節団は、来日以前にオランダと協定を結び、日本と条約を結ぶにあたってはオランダに仲介してもらうことを決めていた。そのため、江戸ではオランダ総領事館であった長応寺(現在,東京都港区)を活動拠点にすることとし、1863年5月28日(文久3年4月日)に長応寺にスイス国旗を掲揚した。

スイス使節団が活動拠点にした江戸の長応寺
アンベール著『幕末日本図絵』挿絵 当館蔵
スイス使節団が活動拠点にした江戸の長応寺 アンベール著『幕末日本図絵』挿絵 当館蔵

ブレンワルドの日記にはこの日の光景が「11時に横浜から江戸に到着した。食事をしてから礼装を着て、2時半に下船し、3時に埠頭に到着した。70人の水夫と30人の水兵が将校の命令で付き添い、先頭を行ったのがオランダとスイスの国旗を掲げた水夫であった。長応寺に着くと、太鼓の音に合わせてスイス国旗を掲揚した」と記されている。どうということもない記述であるが、江戸で初めてスイス国旗が掲揚された日の記述であり、それ以来150年以上にわたる日本とスイスの交流が、この時に始まったとも言える。

次に紹介するのは通商条約が結ばれた1864年2月6日(文久3年12月29日)の日記である。条約を結ぶまでにはブレンワルドの長崎到着から10ヶ月近い月日が流れていたが、粘り強く幕府との交渉を続けたブレンワルドの胸中はどのようなものだったのだろうか。彼は淡々と事実を日記に記しただけであるが、以下にこの日の日記を紹介しておきたい。

「今日からスイスと日本の通商条約が発効する。午前10時過ぎに竹本甲斐守・菊池伊予守・星野金吾の3人の委員が大勢のお供を連れて到着し、僕らは正装で出迎えた。条約は相互に特に儀式ばることもなくフランス語・オランダ語・日本語のものに署名し、おのおの交換した。スイスはアンベール氏と日本人委員が署名した条約の日本語版を2部、フランス語版を1部、オランダ語版を1部貰う。日本人の方も同様だ。この大きな一歩の後、成功を祝うシャンペンが何杯も注がれ、最後に日本側から立派な贈り物が贈呈された。次の通りである。アンベール氏には絹の反物10反、僕には5反、メットマンにも5反、カイザーには3反。11時に式典が終わり、僕らの使命は成功裏に完了した。昼食の後、大君の城まで散歩した。6時にスイス代表団がジャンピ号に乗船し、9時に横浜に到着した。」

(西川武臣)

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