横浜開港資料館

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「開港のひろば」第125号
2014(平成26)年7月16日発行

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展示余話
原富太郎と原富岡製糸場

巨大資本・片倉製糸

しかし、このような原富岡製糸場の品質改良のモデルは、大正中期より各地の製糸工場を急速に傘下におさめつつあった片倉製糸が取り組んだものであった。原合名会社は売込商として、片倉の生糸を扱っていたが、関東大震災を契機に片倉は売込業に進出し、その後ストッキング用高格糸を中心に直輸出をおこない、横浜の生糸売込商から自立した存在になっていった。「一代交配蚕種普及団」を組織しての蚕品種改良と養蚕農家との特約取引の普及、製糸器械改良家御法川直三郎と組んだ多条繰糸機の導入も、その資本力を背景に、先取的に取り組んでいった。

原富岡製糸場が、約一年の経営委託ののちに片倉製糸の手に渡ったのは、昭和14(1939)年7月30日である。原富太郎がこの世を去ったのは、そのわずか半月後の8月16日であった。

官営期21年、三井経営期9年ののち、富太郎は実に37年間、富岡製糸場を経営した。その歳月は日本製糸業の激動期であった。片倉に経営が移ったのち2年にして太平洋戦争が始まり、日本の生糸は、市場で品位を問われることのない、パラシュートや火薬袋の軍需に消費されることとなる。戦後は輸出産業の花形に返り咲いたが、その期間も15年程度で、製糸場が稼働したその後の四半世紀は、日本製糸業自体が衰退に向かう時代であった。

富岡製糸場が稼働した115年の歴史において、原富太郎はもっともよく闘った経営者であったと言えよう。 

(平野正裕)

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