横浜開港資料館

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「開港のひろば」第125号
2014(平成26)年7月16日発行

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展示余話
原富太郎と原富岡製糸場

高格糸生産にむけて

均質で太さのムラや節がなく、光沢に富んだストッキング用高格糸生産の条件は、ほどけ具合が一様によい繭を原料とすることにあった。そのために製糸業は、蚕種から養蚕にいたる「川上」から一貫して改良することが求められた。

明治38(1905)年、富岡製糸場は蚕業改良部を創設し、同40年には蚕種製造所が置かれて、優良蚕種(蚕の卵)の生産に乗り出した。養蚕組合・養蚕農家に対して蚕種を配布し、生産された繭を買い取るという特約取引で、原料品質の統一を図ったのである。

しかしながら富岡製糸場がある群馬県は、生糸の共同出荷で勢力を拡大した組合製糸三社、碓氷社・甘楽社・下仁田社の地盤となっており、富岡製糸場の群馬での特約取引拡大には制約があった。また明治末から大正期にかけて、愛知県岡崎の三龍社が開発した蚕種「黄石丸(こうせきまる)」が全国的に大流行し、ほぼ同時期に富岡も黄繭種をヨーロッパから輸入し、養蚕農家に配布している。輸入に頼ったのは自製蚕種での対応が叶わなかったためなのか不明であるが、制約的であったにせよ、「川上」の改良方策は取り組まれていた。

つぎに製糸場内で取り組む乾繭〜煮繭〜繰糸の「川下」の改良をみてみよう。製糸技術では、大正5(1916)年、6年に、繰糸方をより優良な糸を生産するのに適した「沈繰法」に改良し、7年には原料繭を煮るための煮繭場を設置。昭和元(1926)年には加圧式の煮繭機を導入した。大正13(1924)年には、太さムラをのぞくために緩やかな速度で生糸を巻き上げる、20条多条繰糸機を試験導入し、独自の「TO式多条繰糸機」を開発して、設備化するなどの取り組みをしている。

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