横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第122号
2013(平成25)年10月18日発行

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資料よもやま話
飯田快三と関東大震災

震惨苦阿呆陀羅経(しんさいくあほだらきょう)

鶴見市場(現鶴見区)の添田家には、快三が震災の月に書いた「震惨苦阿呆陀羅経」が残っている。震災の災禍を「ないものづくし」でよんだもので、表紙には祭文かたりの男女が描かれている。表紙・内容ともすべてペン書きである。

『震惨苦阿呆陀羅経 震災苦昨日の夢』 添田有道氏蔵
『震惨苦阿呆陀羅経 震災苦昨日の夢』 添田有道氏蔵

快三と添田家との関係は浅くはない。明治44(1911)年、快三と代議士の添田知義は、鶴見川の国費による改修実現運動の先頭にあった。流域地区の代表者としての両家ではあったが、震災時の添田家は知義もその子知興(ともおき)も逝去しており、この「震惨苦阿呆陀羅経」が次代のなお少年期にあった添田知(とも)にあてられたとは考えにくい。添田家に残った事情は不明である。今日的にみれば不穏当な内容もあり、理解が困難な箇所もあるが、全文を紹介しよう。

「 震惨苦阿呆陀羅経
  震災苦昨日の夢   天譴 」
 地震ものづくし 六菴海山寺戯作
 恐れなから申上ます。ないものづくし
 さてもないない是非もない/地震の被害はてしもない/一ツ時どんと来てあつけない/臆病家にハよりつかない/瓦の落ちない家はない/柱の曲らぬ家ハない/市中はやけて見渡せない/死人の噂絶間ない/誰でも死たひ人ハない/逃げても火の手にや叶わない/行くての川には橋がない/水火の責には命がない/裸で遁れて着物がない/葬式するにも骨がない/子供ばかりでらちがない/奥様御堀で行水もよいが/大事な処も見せ兼ない/お顔に塗りたい御化粧もない/其癖歎ひて意気地がない/穴堀親爺のせわしない/神主坊主も寝る間がない/戒名付けるも紙かない/戒厳令は止む時ない/兵隊抜剱仕方がない/誰何されても手が出ない/夜警自警にひまがない/火災にもれても職がない/どうでも生かしちゃ只置ない/自然の掟にや叶はない/こいつも被害の外ならない/御救ひ米は白くない/家台のすいとん味(美味)くない/お汁粉仲味に餅がない/夫でも喰ハすにや居られない/貰たふとんにや綿がない/夫でも着ずにハ居られない/配給方法だらしない/中途でくすねて届かない/監督役人埒がない/心に任かせぬ性度がない/値上げばかりが能じやない/お上のやる事抜目がない/保険や銀行切がない/自治体何やらわからない/颱風水害計られない/伝染病は数知れない/強盗窃盗やる瀬がない/普請ハ支度も◎がない/銭があつても職人ない/職人あつても材料がない/長生したとて生甲斐ない/京浜復興見込がない/流行言葉じやないけれど/迚も此際やりきれない/やがて世の中恙ない/お上のお恵ミ底知れない/何でも稼ぐにしくはない/喰つて通るより望ハない/雨露をしのげハ勿体ない/自分一人の事じゃない/やきやき云ても仕方ない/心を大きく持つ外ない/無事で居たのか此上ない/不足を云つてはとんでもない/国のわずらい仕様がない/家内仲よく友かせぎ/それにましたる祈祷はない
弥々上下ナシニ一切平等ノナリワイダナリワイダ
ない袖のふりやうもなし秋の空
 大正十二年九月 海山隠士しるす

快三は、震災被害の天災と人災の両面での災禍を見抜き、「ないものづくし」でうたいつつ、すべてを失った者たちに等しく「心を大きく持つ外ない」「家内仲よく友かせぎ」と諭した。そして「弥々上下ナシニ一切平等ノナリワイダ」と達観し、「ない袖のふりやうもなし秋の空」の句で結んだ。その他にも快三は、多くの震災に関連した俳句を残し、宮前村長の都倉義知にあてた、別途の「アホダラ教」を自らの書類に記録している。

2年後の大正14(1925)年10月、快三は鶴見花月園で倒れ、その生涯を終えた。「東洋一の遊園地」と快三の一徹な面がまえとは、どこかそぐわないものを感じる。しかしそれこそ「多少変な親爺」と評された快三の終焉に相応しい場であったのかもしれない。

(平野正裕)

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