横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第122号
2013(平成25)年10月18日発行

表紙画像

企画展
ヘボン塾の写真発見

従来ヘボン塾については、ヘボンのミッション宛て書簡やクララ夫人の書簡、関係者の伝記等に記されており、その存在は明らかであった。しかしヘボン塾の様子を撮影した写真は、従来知られていなかった。この度、今回の展示開催に合わせたかのように、ヘボン邸の中庭に子どもたちが集う写真を、岡山洋二氏よりご寄贈いただいた。ヘボン塾の様子を知ることのできる貴重な資料であり、紹介したい。

ヘボン塾

1859(安政6)年の10月、クララ夫人とともに来日したヘボンは、当初神奈川の成仏寺に居を構え、施療や日本語の研究に勤しんだ。外国人殺傷事件が発生し、情勢が不安定ななか、1861(文久元)年の8月、クララは単身アメリカへ帰国する。クララの帰国は1年半におよび、その間ヘボンは、自ら設計した新居を横浜居留地39番に建設し、移転した。1862(文久2)年12月末のことであった。

1863(文久3)年3月、クララは横浜に戻り、同年秋、ヘボン邸で男女共学の私塾を開設した。いわゆるヘボン塾である。ヘボン塾は、ヘボン夫妻が『和英語林集成』の初版および第2版の刊行のため上海に滞在した期間(1866(慶応2)年10月〜1867(慶応3)年5月、1871年(明治4)11月〜1872(明治5)年7月)、また米国に滞在した期間(1872年10月〜1873(明治6)年11月)を除き、開校されていたと思われる。1875(明治8)年9月には、ヘボン塾の男子部をジョン・バラ(John Craig Ballagh, 1842〜1920)夫妻が担当することになる。このころヘボン夫妻は、山手への移転のため、借家へ転居し、1876(明治9)年2月には、居留地39番の自宅をジョン・バラ夫妻に譲り、借家から山手245番地へ転居した。同年4月、クララが体調を崩し、ヘボン塾を辞任するまで、ヘボン塾は開設から約13年間存続した。

ヘボン塾からは、後に外交官として日英同盟締結に尽くし、英国公使・外務大臣・逓信大臣を歴任した林菫や、立憲政友会総裁・内閣総理大臣等を務めた高橋是清、明治学院第2代総理の井深梶之助、三井物産を創設した益田孝など、明治から昭和にかけて、政財界・教育界で活躍した人々を輩出した。

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