横浜開港資料館

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「開港のひろば」第122号
2013(平成25)年10月18日発行

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企画展
宣教医ヘボン
〜ローマ字・和英辞書・翻訳聖書のパイオニア〜

『和英語林集成』横浜版 1867年刊
明治学院大学図書館所蔵
『和英語林集成』横浜版 1867年刊 明治学院大学図書館所蔵

ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815〜1911年)は、イギリス国教会に弾圧され、アメリカに移住したプレスビテリアン(長老派)の家系に生まれた。プリンストン大学を卒業後、ペンシルバニア大学で医学を学び、医師となったヘボンは、医療を通じてキリスト教の普及を図る医療伝道を希望し、5年にわたり中国伝道を経験した後、帰国した。ニューヨークで医院を開業し成功を収めたが、日米修好通商条約の締結により日本の開港を知ったヘボンは、日本への派遣を宣教団に申し入れ、横浜が開港した1859(安政6)年の10月、クララ夫人(Clara Mary Hepburn, 1818〜1906)とともに宣教医として来日した。44歳であった。

ヘボン肖像写真
Griffis, Hepburn of Japanより
ヘボン肖像写真 Griffis, Hepburn of Japanより

その後ヘボンは、1892(明治25)年10月の離日までの33年間、施療や『和英語林集成』の編纂、聖書の翻訳や、明治学院の創設、指路教会教会堂の建設などに取り組み、日本の医療や印刷・出版文化、教育やキリスト教の普及に大きな足跡を残した。

ヘボンは、日本での33年間を横浜で暮らし、医療や伝導を通じてヘボンに接した日本人だけでなく、居留外国人からも深く敬愛された。当館では、横浜にゆかりの深いヘボンについて、開館以来、資料収集を行ってきた。一方、ヘボン夫妻が1863(文久3)年、居留地三九番の自宅に開設したヘボン塾から始まった明治学院も、ヘボン関係資料を所蔵し、デジタル・アーカイブ等で普及を図っている。本展示では、今年開校150周年をむかえる明治学院の協力を得て、横浜を愛し、近代日本の発展に多大な足跡を残した宣教医ヘボンの、日本での日々と多彩な業績をたどりたい。

なおヘボン式ローマ字で有名なヘボンの名は、日本語での一般的な表記によれば、ジェームス・カーティス・ヘップバーンと記される。幕末期の日本人は、「ヘップバン」・「ヘッバン」と発音されるその名を、ヘボンと聞いたのであろう。彼の著作『和英語林集成』の表紙にも「平文」と記していることから、本展示では、ヘボン本人についてはヘボンを、本人以外のヘップバーン姓の人については、ヘップバーンと記すことにする。

(石崎康子)

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