横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第122号
2013(平成25)年10月18日発行

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展示余話
写真が語る震災復興
−O.M.プール関係資料から−

関東大震災に関する写真資料はプリントや絵葉書、刊行物など様々な形で残っており、被災地の状況や被災者の姿を現在の私たちに伝えている。前回の企画展示「被災者が語る関東大震災」では、横浜市内で写真館を営んでいた前川謙三(前川写真館)や岡本三朗(サブロの写真工場)、日常の業務でカメラを使用していた磯貝久(神奈川県農会)や松田理吉(禅馬ワークス)など、レンズ越しに関東大震災を捉えた被災者たちを紹介した。また、当館所蔵の各種アルバムから震災関係の写真を紹介することで、被災地の諸相を提示することもできた。

写真資料からは建物の倒潰状況や街並みの変化、被災者の生活など、文字資料のみではわからない震災時の様子を読み取ることができる。今回は特別資料コーナー「居留外国人の残した震災記録」で展示したO.M.プール旧蔵の震災関係写真から山下町方面の復興の過程をたどっていきたい。

O.M.プール旧蔵の震災関係写真

前号でも述べたように、イギリス系貿易会社ドットウェル商会の日本総支配人であったO.M.プールは、地震発生の数週間後に体験記を記し、1968年に“The Death of Old Yokohama”のタイトルで発表した。同書の日本語版である『古き横浜の壊滅』(有隣堂、1967年)を含め、プールの体験記には、震災後の横浜を捉えた写真が数多く収められている。その元となった写真群を当館所蔵のO.M.プール関係資料の中に確認することができた。

写真群には、他の資料や文献でも見られる震災写真のほか、プールの撮影したオリジナルの写真も含まれており、多くの居留外国人が日常を過ごした山手・山下町方面の被災状況が垣間見える。体験記に依れば、震災直後、家族を連れて神戸に避難していたプールは、会社の再建を図るため、家族を上海に送った後、自らは横浜に戻って仕事を続けた。その時に自前のカメラで被災地の状況を撮影したという。日本人のカメラマンがあまり踏み込まない山手方面の写真が多く残されている。

プールの体験記には、滞在期間に関する明確な記述はないが、横浜での活動状況や写真の内容からオリジナル写真の撮影時期は1923年の9月下旬頃と推察できる。また、オリジナル以外の写真もこの滞在期間中に入手したと考えられる。

それらの写真と他の資料を組み合わせることで、山手・山下町方面の変化が見えてくる。

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