横浜開港資料館

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「開港のひろば」第122号
2013(平成25)年10月18日発行

表紙画像

展示余話
写真が語る震災復興
−O.M.プール関係資料から−

山下町方面の瓦礫処理

プールの写真群には、【図1】から【図5】のパノラマ写真のように、横浜中央電話局新庁舎(現・横浜都市発展記念館所在地/中区日本大通12)から撮影された写真が数パターン存在する。【図1】から【図5】の構図は、大桟橋方面から山下町の海岸通りを経て、山手・中華街方面を望む形となっている。同様の構図の写真はすでに堀勇良氏が『開港のひろば』第36号(1992年1月)において紹介しており、@長島弘氏寄贈の1923年10月中旬頃撮影の写真(企画展「被災者が語る関東大震災」にて展示)と、A復興期に撮影された写真の二種類が知られている。後者の写真では、後に山下公園となる海岸通りの埋立地が完成しているので、撮影の時期は瓦礫撤去が一段落した1924年7月以降であろう。

一連の【図1】から【図5】の写真は堀氏が紹介した写真①と②の間の時期に撮影されたと考えられ、山下町方面の瓦礫撤去の様子が窺える。まず、写真に写る人々がコートを着用している点、また、針葉樹以外の樹木に葉がない点などから写真は1924年の初春頃に撮影されたと推察できる。加えて、瓦礫撤去の様子が同年2月頃の『横浜貿易新報』の報道とも符合しているので、おそらくこの時期に撮影されたのだろう。

図1 本町通りと露亜銀行① 当館蔵
図1 本町通りと露亜銀行① 当館蔵
図2 本町通りと露亜銀行② 当館蔵
図2 本町通りと露亜銀行② 当館蔵
図3 山下町と海岸通り 当館蔵
図3 山下町と海岸通り 当館蔵
図4 現・シルクセンター周辺 当館蔵
図4 現・シルクセンター周辺 当館蔵
図5 大桟橋方面 当館蔵
図5 大桟橋方面 当館蔵
図6 図1の一部拡大
図6 図1の一部拡大
図7 図3の一部拡大
図7 図3の一部拡大
 

管見の限り、震災に関する写真は、地震発生後の街並みや人々の様子、復興後の状況を撮影したものが多く、この時期に撮影された写真はめずらしい。特に重要なのは、写真の内容から瓦礫撤去の具体的な方法がわかる点である。

1923年10月9日、横浜市内の瓦礫撤去の方針が決定し、推定約16万立坪(1立坪=約1.8立方メートル)の瓦礫のうち、約10万立坪を沈下した土地の地上げに、約2万立坪を道路の工事に活用し、残った約4万立坪を①山下橋から税関桟橋(大桟橋)南100間の地点、②根岸町(現・磯子区根岸町1〜3丁目)土砂捨場東隣りの海面、③青木町(現・神奈川区)舟入場区有水面、④神奈川棉花町(現・神奈川区神奈川1丁目)旧砲台場西隣りの公有水面の四ヶ所に運ばれることとなった。この作業は各被災者の負担となったものの、横浜市役所は瓦礫搬出の便宜を図るため、近県から軽便軌条やトロッコなどを借り入れて瓦礫撤去の支援にあたった。

図6】は【図1】の一部、旧イリス商会(現・神奈川芸術劇場所在地/中区山下町281)前の本町通り部分を拡大した写真である。道路の脇にトロッコの軌道が敷かれているほか、元町の方向にむかって数台の台車が連なっている。同じように【図2】の中央部交差点にもトロッコの軌道が敷かれており、山下町の海岸通りまで続いている。これらの点から山下町の道路にトロッコの軌道が張り巡らされていた様子が窺える。運搬に使用できる貨物自動車がまだ十分に普及していなかったため、トロッコは瓦礫運搬の重要な手段となっていた。

続いてかつて建物のあった場所に注目していただきたい。すでに整地の済んだ個所や建物の基礎がむき出しとなった個所、さらに瓦礫の撤去が不十分な個所など、土地の状況は様々である。市民の手に委ねられたため、瓦礫撤去の進捗に差があったことが窺える。そうしたなか、【図1】や【図2】に写る土地の一部では、細かく粉砕された瓦礫が敷地一杯に敷き詰められている。沈下した土地を上げる措置だと考えられる。

他方、山下町の海岸通りに目を転じると、後に山下公園となる埋立地の造成が進んでおり、【図7】のように、馬を使った地均し作業が行われている。地震発生後、山下公園が完成するまでの埋立地の写真は、前川謙三撮影のパノラマ写真など、いくつか存在するものの、埋立地の造成作業を記録した写真は貴重である。この時点で海岸通りにあった松並木は残っていたが、フランス波止場にあった報時球は撤去されており、変わりゆく海岸線の様子が窺える。

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