横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第122号
2013(平成25)年10月18日発行

表紙画像

企画展
ヘボン塾の写真発見

ヘボン邸中庭の写真

写真1は、この度岡山洋二氏よりご寄贈いただいたヘボン邸中庭の写真である。

写真1 ヘボン邸中庭の写真
岡山洋二氏寄贈 横浜開港資料館所蔵
写真1 ヘボン邸中庭の写真 岡山洋二氏寄贈 横浜開港資料館所蔵

本資料については、以下述べる2点で、極めて貴重な資料である。まず第1に、先述したように、ヘボン塾の様子を知ることのできる資料として新発見資料である点である。第2として、従来よりヘボン邸を撮影した写真はいくつか知られてきたが、いずれも堀川側から撮影された写真であった。しかし本資料は、従来知られていたヘボン邸とは逆の方向からヘボン邸を撮影した写真であるという点である。

写真に写るヘボン邸1階の大きな窓の左に小窓があるが、この小窓は、ヘボン邸の設計図面(写真2)から、2階へ昇る階段の光取りの窓であることが分かる。設計図面から見ても、この写真が、堀川と反対側から建物を撮影した写真であることがわかり、ヘボン邸の建物を知る上でも貴重な資料である。

写真2 ヘボン邸設計図面 Records of U.S. Presbyterian Missionsより
ヘボンがミッション本部に書き送った設計図面、図面下が堀川側。
写真2 ヘボン邸設計図面 Records of U.S. Presbyterian Missionsより ヘボンがミッション本部に書き送った設計図面、図面下が堀川側。

写真3は、堀川側からヘボン邸とその周辺を撮影した写真である。中央にヘボン邸があり、写真右側に2階建てのグランド・ホテルの建物が写っている。グランド・ホテルは、1867年頃、ホイ(Henry E. Hoey)がホテルを開業しようしたが、何者かに殺害されたため、建設が中断された建物を、写真家ベアトが買い取り、グリーン夫人(Mrs. M. E. Green)が賃借して、3階建ての建物に改築し、1870(明治3)年8月16日に開業した。しかし程なく営業が中断され、1873年にスミス(William Henry Smith)を総支配人として、写真3に写る2階建ての建物に建て替え、営業を再開したホテルである(『横浜もののはじめ考』当館編、The Japan Weekly Mail, 1873年8月23日号)。写真1の左側に写る2階建ての建物はグランド・ホテルであることから、この写真は、スミスによるグランド・ホテルの営業が始まった1873年8月以降に撮影されたと考えてよいであろう。

写真3 山手から撮影したヘボン邸とグランド・ホテル
横浜開港資料館所蔵
写真3 山手から撮影したヘボン邸とグランド・ホテル 横浜開港資料館所蔵

写真には、庭の中央に机、その上に聖書と思われる本が1冊置かれている。机の右側奥にヘボン夫人クララが立ち、クララを境に右側に女性が19名、左側に男性が42名、またベランダに男性3名が立っている。机に聖書と思われる書籍が置かれていることから、安息日学校(日曜学校、現在では教会学校が一般的)の際に撮影された写真と推察できる。

クララが、ヘボン塾での教育活動を本格的に行ったのは、夫妻が米国から日本へ戻った後、1874年1月のことであった。『ヘボン在日書簡全集』(岡部一興編 高谷道男・有地美子訳 教文館 2009年)より、ヘボン塾に関する記載を見てみると、1873年11月に夫妻は米国より横浜に戻り、クララは1874(明治7)年1月、ヘボン塾を再開し、安息日学校も始めた(1874年1月3日付ヘボンの書簡)。たちまち生徒数は増加し、1875年2月20日の書簡では、「40人以上の立派な学校に」なったことが記されている。同年3月27日の書翰には、「わたしどもの学校の生徒数は40、50人になりました」とあり、5月21日の書翰には「日曜日には安息日学校を開いております。聴衆は時には70人も出席するほどに増えました」とある。クララはヘボン塾を再開し、生徒数が増加していくことに成果を感じていたのであろう、1875年2月20日付のラウリー宛てクララの書簡では、「フォーリン・ミッショナリー」にヘボン塾の活動を報告する記事を記している。

ヘボンが1875年7月23日の書簡に「村にも町にも公立学校があって、子どもらはよく出席して」いると記したように、1872年の学制施行後、学校の建設が急ピッチで行われ、多くの子どもたちが学校に通うようになった。また1873年には禁教令が記された高札が廃止された。教育への関心の高まりと、キリスト教禁教令の撤廃が、ヘボン塾隆盛の背景にあったと考えられる。

写真1には60人以上の人々が写っていること、バラ夫妻が写っていないことから、写真は、1874年1月にクララがヘボン塾を再開して以降、1875年9月に男子部をジョン・バラ夫妻が担当するまでの2年弱の間に撮影されたものと考えられる。

ヘボン塾の男子部は、ジョン・バラ夫妻に引き継がれた後、東京の築地大学校に合流し、先志学校を合併して東京一致英和学校と校名を改めた。1886(明治19)年には、日本基督一致教会が開設した神学校である一致神学校と合併し、1887(明治20)年明治学院となった。またキダー(Mary Eddy Kidder, 1834〜1910)は、多忙なクララ夫人を助け、1870年からヘボン夫妻の上海出張の期間、ヘボン塾を担当したが、その女子生徒を引き継ぎ発展したのがフェリス女学院である。

ヘボン塾は、日本におけるキリスト教主義学校の源流ともいうべき私塾であるが、ここで紹介した写真は、明治初頭のヘボン塾の様子を知ることのできる資料という点で極めて貴重である。

なお写真には多くの人物が写っているが、人物の比定は今後の課題としたい。

最後になるが、ここで紹介したヘボン邸中庭の写真を寄贈してくださった岡山洋二氏、また寄贈にご尽力くださった松岡正樹氏には、厚く御礼を申し上げたい。また本稿の執筆にあたっては、明治学院歴史資料館の中島耕二・松岡良樹の両氏にご教示をいただいた。記して謝意を表します。

(石崎康子)

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