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「開港のひろば」第122号
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資料よもやま話
飯田快三と関東大震災
腸チフスの流行
90年前の大正12(1923)年にさかのぼろう。関東大震災直前、大綱村周辺では伝染病の腸チフスが流行していた。村では、おそらくは長男で村長の飯田助夫をつうじて、隠居身分にあった快三に広報用の衛生宣伝図画の執筆を依頼した。8月30日収入役・吉原愛之助はお礼の「焼酎」とひきかえに、衛生図画3枚を手に入れた。帰途、自転車で転んだ吉原は、3枚の内の1枚を小川に流して失ってしまうが、残った二枚は役場で孔版(ガリ版)印刷されて配布される。印刷された図画は31日に快三の手に渡ったと思われ、飯田家文書中に綴られている。失われた1枚は、後日快三自身が備忘のために書類上に書き留めた。患者の衣類を洗濯する図がそれである。「フントニ(ほんとに−平野)病人ノ汚物毎日困リマス」とセリフがあるが、どこかほのぼのとしてユーモラスである。
震災当日は、大綱尋常小学校で病者隔離のための避病院増設ほかについての会議があり、その席で震災が発生した。学校は全壊。村長飯田助夫は助け出されたが、吉原ほか数名は圧死した。快三は「全ク村治ノタメ一命ヲ貢献ス惜ムヘシ悲ムヘシ、嗚呼」と吉原収入役の死を悼んだ。