横浜開港資料館

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「開港のひろば」第121号
2013(平成25)年7月13日発行

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資料よもやま話
明治初年の武藏国の寺院と僧侶たち
−浄土宗本末寺院明細帳から−

横浜市内にあった浄土宗寺院

「浄土宗本末寺院明細帳」には、現在の横浜市域に含まれる地域にあった58の浄土宗の寺院が収録されている。この内、もっとも大きな寺院は、この資料の原本を所蔵していたと伝えられる港北区小机町の泉谷寺であった。この寺は知恩院の末寺で、「中本寺」の寺格を持っていた。境内の広さは約3000坪で、檀家数は140軒であった。住職は梁誉、54歳で、彼は慶応3(1867)年から住職をつとめた。また、住職のほかに、随従5人が配置され、寺院は6人の僧侶で運営された。随従の僧侶はいずれも10代・20代の若者で、彼らは岐阜県(2人)・愛知県・香川県・敦賀県からやって来たから、こうした寺格の寺院では、全国の若者たちが修行を通じて交流していたことになる。

次に、泉谷寺に次ぐ位置にあったのが先述した橘樹郡神奈川町(現在、神奈川区)の慶運寺であった。この寺には三重県を出身地とし、東京浅草の天嶽院や茨城県結城の弘経寺で修行をした48歳の住職がいた。また、この寺には寄留僧が2人配置され、1人は熊本県八代出身の23歳の若者、1人は橘樹郡六角橋村(現在、神奈川区)の宝秀寺を明治2(1869)年に隠居し、住職を辞めた五六歳の僧侶であった。隠居の理由については分からないが、住職を隠居して別の寺院に寄留するという僧侶のライフサイクルがあったことをうかがわせる。

一方、慶運寺は、神奈川町内や東海道沿いにいくつかの末寺を抱えていた。そのひとつが、橘樹郡生麦村(現在、鶴見区)の安養寺であった。この寺は、生麦村名主であった関口家の菩提寺であり、関口家の歴代の当主が記した「関口日記」の記述に度々登場する寺院であるが、この寺院には51歳の住職と「前住隠居」と記された70歳の僧侶がいた。現在と違って、両者に血縁関係はないが、新しい住職が決まった後、前の住職がそのまま寺院に残ることもあったようである。このほか、「浄土宗本末寺院明細帳」には多くの僧侶の人生が記録されているが、地域の有識者として活動したであろう僧侶の姿をうかがうことができよう。

明治初年の生麦村(横浜開港資料館蔵)
浄土宗安養寺は生麦村にあった寺院である
明治初年の生麦村(横浜開港資料館蔵)浄土宗安養寺は生麦村にあった寺院である

大熊弁玉の履歴

「浄土宗本末寺院明細帳」に記載された僧侶の中で、もっとも有名な人物は大熊弁玉である。弁玉については横浜市中央図書館発行の『横浜の本と文化』や横浜市教育委員会発行の『碑はつぶやく』に詳しい記述があるが、これらの本には弁玉が神奈川青木町の三宝寺の住職をつとめるかたわら歌人として活躍したことが示されている。現在、神奈川区高島台に彼の歌碑があるほか、彼が出版した歌集「由良牟呂集」が残され、その作品は文明開化を題材に、近代化していく横浜を巧みに歌にしたと評されている。そこで、最後に文化人として活躍した僧侶の代表者である弁玉の履歴を記した部分を紹介しておきたいと思う。

「神奈川県管轄武藏国橘樹郡神奈川青木町、瑠璃光山三宝寺、右慶運寺末、創建年度不詳、開山嘆誉代々香衣勅許、第二十一世住職、弁玉、壬申五十五歳、東京府管轄浅草俵町大熊卯八四男、天保元庚寅年六月、同所清徳寺大潮弟子、同三壬辰年二月、増上寺入寺、大僧正明誉於座下宗義相承、嘉永元戊申年九月五日、香衣上人、綸旨頂戴、嘉永三庚戌年六月、住職、明治五壬申年五月、教部省十等出仕拝命、同年六月、依願免職、以上一僧、境内八畝歩、但除地、檀家二十四戸」。簡単な記述ではあるが、弁玉が生まれ故郷の江戸浅草の寺で得度し、その後、増上寺で修行したことがうかがえる。また、ペリー来航直前に三宝寺の住職となり、彼は激動の時代の横浜の姿を眺めることになった。弁玉以外の僧侶は彼ほど有名ではないが、「浄土宗本末寺院明細帳」が僧侶たちの活動の一端を知ることができる貴重な資料であることは間違いない。

(西川武臣)

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