横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第121号
2013(平成25)年7月13日発行

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資料よもやま話
明治初年の武藏国の寺院と僧侶たち
−浄土宗本末寺院明細帳から−

明治初年の僧侶

「浄土宗本末寺院明細帳」には全部で123人の僧侶の履歴が記されているが、この内、76人が住職の肩書きを持ち、以下、弟子14人、随従(随身)11人、隠居5人、寄留4人、道心者4人、住尼2人、知監事務1人、副知監事務1人、堂主1人、庵主1人、付弟1人、不明2人となっている。それぞれどのような僧侶であったのか、すべての役職については分からないが、隠居や寄留も含めてかなり詳しい調査がおこなわれたようである。履歴の記載内容は、僧侶の出身地、得度(剃髪して仏門に入ること)した寺院と得度の年齢、修行した寺院、住職になった年齢などである。

最初に出身地であるが、出身地については123人全員の出身地(県名・郡名・町村名)が判明する。この内、もっとも多いのは神奈川県を出身地とする者で26人であった。以下、愛知県(17人)、岐阜県、(8人)東京府(8人)、山口県(7人)、額田県(6人)、滋賀県(4人)、新川県(3人)、奈良県(3人)、柏崎県(3人)、犬山県(3人)、長崎県(2人)、浜田県(2人)、三重県(2人)、広島県(2人)、度会県(2人)、香川県(2人)の順で、1人だけの県も23県に及んでいる。県の合併などによって現在ではなくなった県もあるが、いずれにしても全国各地から僧侶がやって来ている。

また、神奈川県を出身地とする僧侶がもっとも多いものの、その割合は全体の2割にすぎず、他府県を出身地とする僧侶の方が地元出身の僧侶よりも多かったことになる。特に、現在の愛知県から岐阜県にかけての東海地方および東京都から多くの僧侶が来ている。また、「浄土宗本末寺院明細帳」には出身階層が記されることがあるが、その中に士族5人(大垣藩士・平戸藩士・長州藩士・紀州藩士・佐渡国相川士族)と熊本藩卒族1人が含まれている。彼らは武士の家の二、三男として生まれ、寺院に入ったことになるが、このことは明治初年の寺院が農民・町人と武士が身分を超えて交流する場所であったことを示している。

次に、得度の場所と得度の年齢であるが、場所については出身地の村や町の寺院で得度することが多い。記載された123人の内、出身地の村や町の寺院で得度した者は36人で、全体の約3割を占めている。また、出身地の村や町が属する郡の中にある寺院で得度した者が23人いるから、約半数が郷里の寺院で得度したことになる。さらに、得度の年齢は10歳までに得度した者が51人、11歳から15歳までに得度した者が54人であった。もっとも多いのは八、九歳から一二歳までに寺院に入った者であり、この年齢で生家を離れ郷里の寺院で最初の修行に入ることが一般的であった。また、得度後、2、3年で、最初の寺院から修行寺院へ移る者がもっとも多く、彼らは10代後半で出身地を離れることになった。

住職になった年齢については、大部分の僧侶が21歳から40歳で住職になっているから、得度してから10数年から20数年の修行を経て、寺院の住職として赴任している。修行寺院については、僧侶によってまちまちであるが、主な修行寺院としては関東十八檀林の寺院があげられる。特に、東京芝の増上寺、八王子市の大善寺、東京深川の霊巌寺、東京浅草の幡随院、東京小石川の伝通院、鎌倉市の光明寺、川越市の蓮声寺、館林市の善導寺で修行する者が多く、これらの寺院が修学の場所および各地の寺院へ住職を派遣する母体になった。

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