横浜開港資料館

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「開港のひろば」第121号
2013(平成25)年7月13日発行

表紙画像

企画展
地震発生と被災者の行動

 関東地震は横浜市に大きな被害を与えた。激震を耐えぬいた人びとは、その後、それぞれの立場から様々な行動をとった。ここでは代表的な展示資料紹介しつつ、八木彩霞、日高帝、O・M・プールの三人の行動に光をあててみたい。

関東大震災を描いた小学校教員

元街小学校(現・中区山手町)の教員であった洋画家の八木彩霞(熊次郎)は始業式の帰りに立ち寄った元町五丁目の理髪店で地震に遭遇した。八木は自らの体験を【図1】の『関東大震災日記』に書き残しただけでなく、当時の状況をスケッチし、『関東大震災画集』などにまとめている(いずれも八木洋美氏所蔵・当館保管)。また、横浜市史資料室所蔵の『震災記念 元街小学校復興誌資料』にも八木の描いたスケッチが確認でき、文字と絵画で地震発生時の状況を伝えている。それらから一人の被災者の行動を立体的に再現することができる。

図1 八木彩霞『関東大震災日記』 八木洋美氏所蔵 当館保管
図1 八木彩霞『関東大震災日記』 八木洋美氏所蔵 当館保管

9月1日の正午前、理髪店の女将から昼食を勧められた八木は、奥の座敷で茶に口をつけようとした瞬間、大きな揺れに襲われた。日記には「遠雷ノヤウナ響キガシタト思フト間ナシニ烈シク上下震動ガ起ツタ。棚ノモノガカラカラト落チ電燈ガパチンパチント天井ニブチ當ツテ居タ。細君ハ子供ヲ負タ儘裏口カラ先生大地震デスト云ツテ飛出シタ。ヨシト立チ上ツテ鴨居ト柱ヲ手デ支ヘテ居タガ中々振動ガ止マナイ。膳ハ引クリ返ル棚ハ落チル壁土ハ雨ノヤウニ降リダシタ目ヲ開ケテ居ラレナイ」と記されている。地震が突然襲ってきた様子が窺える。被災者の多くは昼食の前後であった。

その後、八木が理髪店の外に逃れた直後、建物は倒潰し、店にいた数名を巻き込んだ。まだ揺れは収まらず、八木が周囲を見渡すと、「附近ノ家ハ大部分鉢合セヲヤツテ潰シテシマツタ。壁土ガ蒙々ト立チ昇ツテ太陽ハ赤ク銅色ニ変シ夕暮ノ様ナ暗サニナツタ。地面ガボンボント音ヲ立テテ電光状ニ裂ケル。山手ノ一角ニ建ツテヰタ櫻山ホテルガ凄イ音ヲタテテ山麓ヘ真逆様ニ落チ込ダ。赤褐色ノ砂塵ガ高ク上ツタ」という状況で、建物は震動によって次々と破壊されていった。地震直後の火災のため、市内の大部分は焼き払われるが、それ以前にも建物は大きな被害を受けていた。また、山手では崖崩れも生じていた。八木はそうした様子を克明に記録している。

難を免れた八木は下敷きになった人びとの救助にあたるが、周囲の通行人は自分のことで精一杯で、他を顧みる余裕はなかった。さらに炎が迫ったため、八木は崩れかけた山手トンネルを抜け、山手公園を経て勤務先の元街小学校へむかった。その間にも逃げ遅れた外国人児童の救出を試みたが、火災のために、どうすることもできなかった。こうした悲惨な光景は被災地の各所で見られただろう。

八木が元街小学校に到着した時、すでに運動場は避難民で溢れており、同僚の教員も重傷を負っていた。そこで応急対応を行った後、やるべきことは全てやったと考えた八木は、家族の安否を確かめるため、燃える上がる市街中心部を迂回して青木町上反町(現・神奈川区)の自宅に帰った。幸い家族は無事であったが、「隣リノ旦那サンハ帰ラレタノニ宅ノハマダ帰ラナイワアーワアート老人ヤラ女ヤラガ泣ク声ガ烈シクナツテ来ル可愛想デナラナカッタ」と隣家の状況を記している。家族や知人の安否確認は容易ではなかった。

その夜、高島山に登った八木は火に包まれた市内の状況を目の当たりにし、「最モ猛烈ナ火ハライヂングサン及ビスタンダード石油会社カラ立チ上ル黒烟デ渦巻キ上ル烟ハ天ニ冲シ頂上ト覚シキ所ガ時々ボッボット音ヲ立テテ強ク燃エ其下端ハ溶鉱炉デ赤熱セラレタ銅ノヤウニドロドロト河ニ流レ入リ両岸ノ家モ船モ焼キ払ツテドンドン流レテ行ク」と、火災の延焼状況を日記とスケッチに残している(【図2】)。ここから火災旋風が発生していたことが窺える。

図2 八木彩霞「高嶋山ノ惨状ト全市」 八木洋美氏所蔵 当館保管
図2 八木彩霞「高嶋山ノ惨状ト全市」 八木洋美氏所蔵 当館保管

以上のように、9月1日の記述に限っても、①家屋の倒潰や②崖崩れ、③被災者の救助や④安否確認、⑤火災旋風など、今日でも問題となっている災害時の事象が確認できる。八木の残した記録は災害発生時の状況を生々しく語っている。

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