横浜開港資料館

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「開港のひろば」第121号
2013(平成25)年7月13日発行

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企画展
地震発生と被災者の行動

天使降臨

余震と火災が続くなか、避難者で溢れる横浜公園において積極的に救療活動を行った女性がいた。【図3】は大正13(1924)年に神奈川県知事からその女性に送られた感謝状である。負傷者の救護にあたったことが「奇特」であるとして、県から金30円が贈られた。女性の名前は「鈴木てい」、結婚後は日高姓に変わって「日高帝」となった。関東大震災から90年が経過した今日も日高氏は東京都内で元気に過ごされている(【図4】)。

図3 神奈川県知事の感謝状 日高帝氏所蔵
図3 神奈川県知事の感謝状 日高帝氏所蔵
図4 日高帝氏の近影 加藤隆夫氏撮影
図4 日高帝氏の近影 加藤隆夫氏撮影

さて、震災当時の日高氏の活動は大正12年9月30日発行の『横浜貿易新報』臨時第18号に「天使降臨 公園で働いた鈴木テイ子さん」という見出しで報じられたほか、神奈川県の作成した『大正十二年 震災功績調書』(神奈川県立公文書館所蔵)にもその名前が確認できる。混乱状況のなかで献身的に働く日高氏の姿は周囲からも注目を集めた。『横浜貿易新報』は「関内方面では公園が唯一の避難場所であったためドロ水につかったまゝ何万の人間があるは傷き或は病みつゝ生残の身に救ひの手を待ってゐたが五日頃に至るも却々救護班も来なかったがたった一人その中に一名のかよわい女性が六十八名の傷病者に甲斐甲斐しく薬を与へ包帯を巻きなどして懇切な応急手当をなし萬人に天使降臨の感あらしめた」と救護にあたる日高氏の姿を伝えている。山下町の勤務先で被災し、横浜公園に逃れた日高氏はそのまま救護活動に従事し続けた。

戦後、日高氏は震災時の体験を手記にまとめられ、それを横浜市に寄贈された(詳細は横浜市史資料室編・発行『市史通信』第7号を参照)。また、現在、日高氏のエピソードは災害時の教訓を伝える教材として普及しつつある(内閣府編・発行『災害を語りつぐ』など)。災害時の相互扶助の教訓として、日高氏の体験記は後世に伝えていく必要がある。

加えて、日高氏の体験記からは救護活動とは異なる別の教訓も見えてくる。横浜公園から郷里の中郡成瀬村(現・伊勢原市)へ徒歩で帰ることになった日高氏は、「保土谷−戸塚で暗くなり近くに神社はないかとねぐらをさがしている時、農家の奥様から声をかけられ、どうぞ私共にお泊り下さいとのお言葉に只涙涙でした。お風呂と夕食に預かり、その上ゆかたまで頂戴してワカメのような自分のきものをぬぐことができました。朝の出発には御一家様にお禮のことばも声にならず、只深々と頭をさげるだけの挨拶でした」と、帰宅時の状況を体験記に綴っている。ここでも災害時の相互扶助の一端が垣間見られる。

東日本大震災によって帰宅困難者の問題が浮上した今日、日高氏の記録から学ぶべき点は多い。

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