横浜開港資料館

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「開港のひろば」第119号
2013(平成25)年1月30日発行

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資料よもやま話
横浜のメディア・スポーツ・イベント

県下野球大会

野球の試合は横浜公園のグラウンドを舞台に行われていたが、横浜貿易新報社主催の野球大会としては、まず明治41年10月に、運動奨励の一端として、来日したアメリカのワシントン野球団と横浜商業学校野球部との試合が行われた。この時は、ワシントン野球団が4対1で勝利した。

明治43年9月には、平沼亮三を会長として、8つのクラブチーム間で二日にわたり行われた、連合野球大会の記載がみられる。試合は千歳倶楽部が優勝したが、番外試合として慶応義塾野球部と横浜商業学校野球部が対戦し、慶応が勝利した。

毎年行なわれるようになったのは大正6年の「神奈川県下中等学校優勝選手対県下各倶楽部優勝選手野球争覇戦」からである。中学校4校と19のクラブが参加を申し込んだ。紙面は予選会から試合の模様を伝え、決勝では横浜商業学校野球部と神奈川県立第一中学校のOBを中心としたJ倶楽部が戦い、J倶楽部が優勝した。詳細な報道を通じて、野球がより人々に身近なものとなった。翌年からはクラブチームのみの参加で、予選会は横浜野球協会などが、本戦を横浜貿易新報社が主催した。

図4 復興野球大会を観戦する人々
『新興の横浜』1巻1号(大正13年9月)より(横浜開港資料館所蔵)
図4 復興野球大会を観戦する人々 『新興の横浜』1巻1号(大正13年9月)より(横浜開港資料館所蔵)

大正13年には、前年の関東大震災による被害から横浜復興の原動力になる「元気」を鼓舞するため、「復興野球大会」を開催した。震災で横浜公園のグラウンドを失い、メンバーを失くして解散したクラブもあった。横浜貿易新報社は、新山下にグラウンドを設置してクラブチームに参加を呼びかけ、大会には学生のチームを含む42チームが参加した。決勝戦は横浜商業学校OBを中心とした商友野球団が勝利し、「観衆鯨波の如く殺到する」ダイヤモンド内で優勝旗の授与が行われ、盛況のうちに大会が終わった。

翌年は、横浜野球協会の主催で60チームによる予選が行われ、8チームによる本戦を横浜貿易新報社が主催した。決勝戦はJ倶楽部が制した。この頃にはチーム数が増え、野球人口が広がっていった。

おわりに

明治・大正時代のスポーツはまだ発展途上にあり、限られた人々や団体によって小規模に行なわれていた。

横浜貿易新報社は、イベントを通して単に部数の拡張を目的とした新聞宣伝のためだけでなく、様々な競技を多数の人々の目にふれさせる機会をつくり、見る楽しさを提供した。地域に密着した報道は、神奈川県内における競技人口の拡大やレベルの向上というスポーツ振興において、役割を果たしたと言えるだろう。

明治以降日本に入ってきた近代スポーツの多くが、このような新聞社主催のイベントによって普及され定着していったのである。

(上田由美)

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