横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第119号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第119号
2013(平成25)年1月30日発行

表紙画像

展示余話
起業家たちが残した言葉

前回の企画展示「事業を興せ!−近代ヨコハマ起業家列伝」は、資料をもって語ることができる起業家を取り上げた。展示内容を検討する過程で、「起業家たちは事業を興すに際して、どのような言葉を残したのか」という疑問が、当館館員のなかから出された。今回は原資料本位の展示を心がけたが、展示物に起業家の言葉を記録した事例は見いだせなかった。また、活字上に残された言葉も功成り名遂げたのちの訓戒めいた文言が少なくないように思われた。しかしそのようななかで、その人となりを象徴しているように感じられた3人の起業家の事例を紹介して、今回の余話としよう。

セコンドの針のごとくに…

展示で紹介した21人の起業家のうち、江戸時代に生まれ、明治・大正と活躍し、昭和に没した長寿者は、大谷嘉兵衛(茶商)・渡辺福三郎(海産物商)・石川清右衛門(シャツ製造)の3人で、とくに大谷は卒寿をまっとうした。

大谷嘉兵衛 明治11(1878)年頃、35才の嘉兵衛。
『大谷嘉兵衛翁伝』(1931年刊)
大谷嘉兵衛 明治11(1878)年頃、35才の嘉兵衛。『大谷嘉兵衛翁伝』(1931年刊)

大谷嘉兵衛は、弘化元(1844)年、伊勢国(いせのくに)飯高郡(いいだかぐん)谷野村(やの)(現在の三重県)生まれ。文久2(1862)年横浜の茶商伊勢屋に奉公に出、鑑別力の高さで信用を得た。慶応3(1867)年アメリカ系外商スミス・ベーカー商会の製茶買入方として雇われ、翌年商館勤めのまま製茶売込商を開業した。その後横浜一の茶商へと成長する。大谷が明治初年頃に歌った歌がある。

セコンドの針の如くに働けよ
  蒸気の如く進み行く世ぞ

弱冠25才。青年でありながら、外国商館の製茶買入方として、また大谷商店主として、2つの重責を負っていた時期のものである。時計の秒針が一時もとどまることなく動くように働けよ、蒸気船(汽車はまだ日本に敷設されていない)が就航するスピードの世の中じゃないか、という若者の気負いが感じられる。自らを鼓舞する言葉でもあった。

大谷は、明治32(1899)年、アメリカでの万国商業大会に日本代表として出席し、太平洋海底電線敷設と米国製茶関税撤廃を建議して、運動をおこした。また、北米への販路拡張のために日本政府に働きかけて日本茶PRの資金を拠出させる。横浜商業会議所の会頭にも推され、二度にわたり都合17年余その任にあった。大谷の生涯は、生前に出版された伝記である、茂出木源太郎編『大谷嘉兵衛翁伝』(1931年刊)に詳しいが、650頁におよぶ大冊のうち、本業の「茶業編」は150余頁で、その他は「産業貿易編」「政治編」「奉公編」と附録の「外遊記」である。大谷の公職上の事績は、政治・経済・民間外交・教育と多岐にわたり、そのつとめは晩年になるも倦むことはなかった。

我と吾が思ふがまゝになるからだこゝろにかけて道を行け人

大谷嘉兵衛は、身体が動くかぎり、“セコンドの針”のごとく誠実に働き尽くした人生であった。

晩年の大谷嘉兵衛 大谷蓉子氏蔵
晩年の大谷嘉兵衛 大谷蓉子氏蔵

続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲