横浜開港資料館

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「開港のひろば」第119号
2013(平成25)年1月30日発行

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展示余話
起業家たちが残した言葉

忍少・分守・寡欲/養気・堪忍・慎志

大谷嘉兵衛に次ぐ長寿の渡辺福三郎は、江戸日本橋の海産物商明石屋渡辺家の出である。横浜商人の多くが地方出身者であるのに対して、江戸商人としての伝統と血筋を継承した起業家であった。

渡辺福三郎 明治28(1895)年頃 三丸興業株式会社蔵
渡辺福三郎 明治28(1895)年頃 三丸興業株式会社蔵

渡辺福三郎は、自らの意志で横浜に出た商人ではない。横浜進出を決めたのは祖父福秀で、開港当時福三郎はわずか4才であった。明石屋横浜店は、福秀が採掘に関わっていた磐城の石炭や、祖業の海産物、生糸や茶をあきなった。文久2(1862)年に福秀が亡くなると、横浜店は福三郎が継ぐものの、実務は叔父大河原知治がみた。その後、横浜店は「石炭屋」の暖簾をあげる。慶応3(1867)年には江戸明石屋から横浜石炭屋は独立する。

明治2(1869)年、14才で福三郎は横浜に移住し、同6年従妹のたまと結婚して名実ともに石炭屋の当主となる。しかしその当時、磐城炭より九州炭・北海道炭が売れ、また生糸も産地出身の生糸商が集荷力を強めてゆくと、福三郎は明石屋由来の海産物商に事業を集約していく。また、同時に不動産を取得して地代収入を拡大し、貸金経営にも乗り出す。企業が勃興する明治中〜後期には、福三郎は投資活動を活発におこなうようになる。明治末期にはかげりがみえてきた海産物取引をたたみ、新たに不動産・有価証券の投資管理をする渡辺合名会社と株式会社渡辺銀行を興す。

福三郎の事業家としての一生は、商人として、金融・不動産・投資をふくめた多角的事業を展開して、リスク回避を常に心がけていたと思われる。そして、海産物商としての先行きに限界をみたとき、金融・不動産・投資事業に見事に転身できた。渡辺家が現代に伝え、横浜開港資料館が保管する古文書は千点を超え、幕末〜明治末の日々の取引を記録した経営帳簿だけでも、200点をかぞえる。横浜商人でこれだけの文書を当事者が残している事例はないが、そこには事業の永続に細心な江戸商人の血筋が感じられる。

福三郎は、徳川家康の遺訓の一部「勝つ事ばかり知りて負けることを知らざれは、害その身にいたる」を座右の銘とした。また「重大の事生じたる時は賢明なる良友と協議し軽率なる挙動をなさざること」を繰り返し書き残した。

少なきを忍び、分を守りて欲寡く(すくなく)/気を養って堪忍し、志慎む

功成り名遂げた人物のカビ臭い訓戒とは聞こえないのは、福三郎の人生に雄弁に裏打ちされているからと思われる。

「養気堪忍慎志」と題された訓辞 昭和5(1930)年1月
三丸興業株式会社蔵
「養気堪忍慎志」と題された訓辞 昭和5(1930)年1月 三丸興業株式会社蔵

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