横浜開港資料館

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「開港のひろば」第119号
2013(平成25)年1月30日発行

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特別資料コーナー
幻の薩英戦争を伝えた記録

平成24(2012)年10月、愛知県刈谷市にお住まいの野々山輝覚氏から四四点の古文書が寄贈された。古文書は、輝覚氏の父勝美氏が収集したもので、三河国に城を持っていた挙母藩(ころもはん)(現在、愛知県豊田市)の藩士加藤家に伝来したものであった。その中に弘化4(1847)年の年号が入った1通の古文書が含まれていた。

この古文書は弘化4年2月10日から12日にかけて、鹿児島湾に1艘のイギリス軍艦が来航し、薩摩藩との間で激しい戦闘があったことを伝えたものであった。その記述は詳細で、薩摩藩士14名が戦死し、イギリス側には674人もの戦死者が出たとある。また、薩摩藩は5人のイギリス兵を捕らえ、彼らの話からイギリス船が通商を求めて来航したことが判明したとある。さらに、船には牛・象・鶴・鴨などが多数載せられていたとある。勿論、こうした歴史事実はなく、古文書はまったくの嘘を書き並べたものであるが、文久3(1863)年7月2日に生麦事件の賠償金をめぐって勃発した薩英戦争を予言するかのような内容である。

ところで、弘化4年に薩摩藩とイギリス軍艦が戦争をしたという噂が流れたことは早くから研究者に知られていた。たとえば、昭和12(1937)年に刊行された『維新史料綱要』は、「島津家国事鞅掌史料」という古記録の弘化4年の項に、薩摩藩とイギリス軍艦が戦争をしたとの記述があることを明らかにした。ただし、同書は、この古記録について「右文書載スル所ノ事実ナシ。蓋シ好事者ノ擬作流布セシモノニシテ、其蜚語タルコト疑フヲ要セズ」と注記し、編者は古文書に記載されたことが嘘であり、戦争が事実ではないことを示している。

では、弘化4年に、薩摩藩とイギリス軍艦が戦争をしたとの流言が広がったのはなぜだろうか。加藤家に伝来した古文書とほぼ同文のものが、当時、江戸で剣術道場を開いていた藤川貞が記した「嘉永雑記」(内閣文庫蔵)にも収録されているから、こうした流言が江戸で広まっていたことは間違いない。この時期、強大な軍事力を持つイギリスが、中国で「アヘン戦争」を起こしたことが知られつつあったから、人々がイギリスの動向に危機感を強めたことが流言拡大の背景にあったのかもしれない。はたして、三河国の小藩の藩士がどのようにして流言を入手したのかは分からないが、古記録は、当時の人々が西欧列強の動向に強い関心を寄せていたことを教えてくれる。

なお、加藤家に伝来した古記録は1月30日(水)から3月31日(日)まで、常設展示室の特別資料コーナーで展示し、展示終了後、他の寄贈資料とともに閲覧室で公開する予定である。

(西川武臣)

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