HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第119号
「開港のひろば」第119号
|
企画展
スポーツがやってきた!
−近代横浜スポーツ史−
横浜は、日本における西洋スポーツ伝来の地です。今から150年前の文久3(1863)年、イギリスの軍隊が山手に駐屯しました。駐屯軍は、明治8(1875)年まで、約12年間駐留しましたが、駐屯軍に関する記録には、クリケット、射撃、競馬、ボート、フットボールなどを楽しむ兵士の姿が数多く記されています。そして山手の兵士たちが、娯楽のためにクリケットやフットボール、陸上競技を始めたのが、横浜で西洋スポーツが行われた最初だといわれています。
安政6(1859)年の開港にあわせ、造成された横浜の町は、慶応2(1866)年の大火により、壊滅的な被害をこうむりました。幕府と外国公使団は、公園の新設や防火道路の整備などを含む「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」(慶応約書)を締結し、居留地の再建を進めます。「慶応約書」にもとづき造られたのが、根岸の競馬場であり、横浜公園でした。
横浜公園は、彼我(ひが)公園とも呼ばれ、そのグラウンドは、明治42(1909)年に横浜市の管理に移行するまで、外国人専用グラウンドで、横浜の外国人スポーツ・クラブであるYC&AC(横浜クリケット・アンド・アスレチック・クラブ)がクラブ・ハウスを設け、テニスやクリケット、サッカーや野球を行いました。
そこでは日本人との対戦も行われました。野球では、明治29(1896)年5月24日と6月5日、第一高等学校対YC&ACの試合が行われ、一高は初戦には敗れたものの、第二戦に勝利し、その勝利が大きく報道されました。またサッカーでは、明治37(1904)年2月6日、東京高等師範学校対YC&ACの試合が行われ、東京高師は9対0で大敗しましたが、この試合は、その後高等学校や師範学校・大学にサッカー部が創設される契機となりました。
横浜に伝わった西洋スポーツは、横浜の地で日本人に伝えられ、日本中に普及しました。本展示では、幕末から大正期にかけての、スポーツの伝来と普及の歴史を、数々の資料をもとにたどります。
(石崎康子)