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「開港のひろば」第119号
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展示余話
起業家たちが残した言葉
寧ろ(むしろ)瘠せたりと雖も(いえども)自立せん…
中区北方の妙香寺(みょうこうじ)の本堂横の墓地にあがる階段に面して、「渡辺忠右衛門翁碑(わたなべちゅうえもんおうひ)」と題された高さ3メートルを超える巨大な石碑がある。忠右衛門は、嘉永元(1848)年伊豆国君沢郡戸田村(へだむら)(現静岡県)生まれ。文久3(1863)年石川島造船所をかわきりに、横須賀製鉄所、横浜アイアン・ワークス、海軍兵学寮、大阪鉄工所、三菱製鉄所(のち日本郵船横浜製鉄所)、横浜船渠と転じて、外国人技術者のもとで造船・鉄工の技術をみがいた。横浜船渠造船部係長のまま、明治29(1896)年「丙申工場(へいしんこうじょう)」を平沼四丁目河岸に立ち上げる。その後独立して31年高島町五丁目に転じて渡辺造船鉄工所と改称した。その後神奈川台場の東隣を埋め立て、渡辺船渠を開いた。忠右衛門は、大正9(1920)年に没した。
この石碑の拓本は、『開港のひろば』第107号(2010年1月発行)の「創業一世紀の渡邉戊申株式会社」と題した小文で紹介した(当館「企画展示室では陳列できない」大きさと書いているが、今回の展示では工夫を重ねて展示できた)。今回、専門家に依頼して石碑の漢文を読み下すにおよんで、忠右衛門が常々人に語っていた言葉が浮かびあがってきた。それは、
人に從假(じゅうか)して以て肥えんよりは、寧ろ瘠せたりと雖も自立せん
他人を頼って太るよりは、痩せてはいても自立している方がよい、という内容のものであった。
造船業にあっては、船舶の修理は船の新造以上に重要な事業であった。ボイラーなどの汽罐の修理ばかりでなく、船腹に付着した蛎殻やサビは、船の航行効率(燃費・スピード)を左右し、定期的なメンテナンスは不可欠であった。その施設としての乾ドック(船渠)は大規模なものであり、京浜にあって個人経営で所有していたのは、忠右衛門だけであった。
渡辺船渠は、たたき上げの技術者として、その地位を獲得していった忠右衛門の「大企業に寄り添って生きるより、自分の運命は自分で切り開くべきだ」との強固な意志と覇気に支えられて生まれたものであった。
(平野正裕)