横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第119号
2013(平成25)年1月30日発行

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資料よもやま話
横浜のメディア・スポーツ・イベント

海水浴場と水泳教授部

レジャーとしての海水浴が定着するのは明治後期から大正期にかけてのことで、この頃鉄道会社や新聞社が、各地に海水浴場を設けている。横浜でも明治45年に横浜電気鉄道滝頭線(駿河橋・八幡橋間)が開通し、交通の便が良くなった磯子に、横浜貿易新報社が海水浴場を開場した。「潮水清澄・風景佳絶」な区域に、模範的な遊泳場の設備を整え、市民のための「安全で愉快かつ経済的な」娯楽場をめざした。入場料は特別席10銭、普通席3銭で、7月からは夜間開場も行ない、連日昼夜にわたる催しが紙面を賑わせた。

単に娯楽の提供というだけでなく、緊急時の護身及び救助、心身の鍛錬のため、水泳教授部を設けて青少年に水泳を教授した。この水泳教授部では、水上運動会を開催し、横浜在住の外国人ボート愛好家で組織する横浜アマチュア・ローイング・クラブ員との「水泳大競争会」も、行なっている。

図2 水泳教授風景 横浜開港資料館所蔵
図2 水泳教授風景 横浜開港資料館所蔵

翌年には、都新聞社主催の新子安海水浴場に設けられた水泳練習所の生徒との交流も図られた。選抜された新子安の生徒が9時間以上かけて新子安から磯子まで遠泳し、磯子の生徒たちの歓迎を受けた。

大正7(1918)年には、それまでバラックだった休憩所が新築されて木造二層楼となり、横浜の夏に欠かせない施設となった。

マラソンと駅伝

神奈川県下中等学校選手マラソン競走は、学生の体育奨励のため大正4年に『横浜貿易新報』創刊25周年記念行事として、藤沢・横浜間約25キロメートルの距離を6校24名の参加者が走破するレースとして始まり、コースを変更しながら大正10年まで毎年開催された。翌11年には小田原・横浜間約60キロメートルを5区間に分けて10校で競う駅伝大会へと規模を拡大し、関東大震災を挟んで翌年には第2回が開かれた。紙面には参加選手全員の成績はもちろん、インタビューや、練習風景、各校紹介などが掲載された。

この間、大正9年に開催された横浜貿易新報社主催の青年大会で寄せられた希望により、翌10年に「県下十一郡青年団マラソン競走」が行われた。大会に先立ち、11郡の各町村では予選が行われた。都筑郡田奈村(現在青葉区)では、「県下青年団マラソン競争村選手予選運動会」が開かれた。青年会内の田奈村時報社が発行したガリ版刷りの新聞『田奈村時報』(2月2日付号外)は、予選運動会を田奈小学校の校庭で5日に開催することを知らせ、「マラソン競争」の他、「短距離競争」、「リレーレース」、その他の競技の種目と参加人数を伝えた。さらに「マラソン競争競技規定」・「同審判規定」のほか、18日に開催される「郡選手予選規定」も掲載した。『田奈村時報』は村内九ヶ所の掲示板に掲げられることになっており、村を挙げての行事だったことがうかがわれる。

図3 「県下青年団マラソン競争村選手予選運動会」開催を伝える号外
『田奈村時報』大正10年2月2日付 横浜市立田奈小学校所蔵
図3 「県下青年団マラソン競争村選手予選運動会」開催を伝える号外 『田奈村時報』大正10年2月2日付 横浜市立田奈小学校所蔵

『横浜貿易新報』の「横須賀・小田原十一郡」欄では、各郡予選会の模様と結果を、連日勝者の写真入で伝えた。都筑郡の予選会は、距離約12キロメートル、参加者68名のレースで行なわれ、6名の本選参加者が選出されたが、残念ながら田奈村からは選ばれなかった。本選は藤沢・平塚間約15キロ、65名による競技となり、高座郡の選手が優勝した。

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