横浜開港資料館

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「開港のひろば」第119号
2013(平成25)年1月30日発行

表紙画像

企画展
発見!ウィリアム・ヘーグの写真

ウィリアム・ヘーグ

ウィリアム・ヘーグ(William Haigh 1891.3.14〜1923.9.1)は、英国副領事として横浜の英国総領事館に勤務中、関東大震災のため亡くなった日本サッカー界の恩人の一人である(伊藤泉美「山手に眠る日本サッカー界の恩人ウィリアム・ヘーグ」『季刊横濱』Vol.36)。

ヘーグは、明治25(1892)年英国に生まれ、ケンブリッジ大学卒業後、22歳の時に来日し、東京の英国大使館に通訳研修生として勤務した。のち書記官補となり、大使館勤務のかたわら、大使館サッカー・チームの一員として活躍し、東京高等師範学校との交流試合を行うなどサッカーの普及に尽力した。またグリーン駐日英国大使に、全国大会優勝チームに授与するためのイングランド・サッカー協会(The FA)よりFAカップの寄贈を提案し、実現のために奔走した。大正8(1919)年3月シルバー・カップが寄贈されると、これが契機となって大正10(1921)年9月、大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)が創設され、全国優勝競技会(現天皇杯全日本選手権)が始まった。

大正8年、ヘーグは一時帰国したが、大正10年には、副領事として再来日し、横浜に勤務した。彼は、大日本蹴球協会の組織体制や全国優勝競技会の運営方法の助言を行うなど、協会の創設においても尽力した。大日本蹴球協会の初代賛助員の一人でもある。しかし大正12(1923)年9月1日、総領事館(現在横浜開港資料館所在地)での執務中、関東大震災で被災し犠牲となった。享年32歳であった。

ウィリアム・ヘーグの写真

ヘーグの一時帰国に際して、東京府豊島師範学校(現在の東京学芸大学のもととなった師範学校の一つ)でヘーグ書記官送別試合が開催された。その時撮影された写真(日本サッカー・ミュージアム所蔵)が、従来ヘーグの写真としてよく知られていたが、この度YC&AC所蔵資料に新たに2点、ヘーグの写る写真が確認された。

写真1は、横浜チームと東京チームの対戦記念写真である。写真は、YC&ACのサッカー・チームの写真ともに一枚の台紙に貼られており(写真2)、写真の裏をみることはできないが、写真裏に記された記述をもとにしたと思われる写真の解説書には、「April 6th, 1918. Tokyo v. Yokohama, Association Football League Challenge Cup」とある。また写真に写る一人一人の名前が記されており、「後列:ヘーグ(レフェリー)」とヘーグの名が記されている。写真は浮出し印が押されている。残念ながら写真館の名は判別できないが、「Yokohama」とあり、横浜の写真館が撮影したものであることが分かる。このことから、試合は横浜で開催され、写真が横浜で撮影されたと推察される。

写真1 大正7年4月6日に行われた横浜チーム対東京チームのメンバー
後列左端のスーツ姿の男性がヘーグ YC&AC所蔵
写真1 大正7年4月6日に行われた横浜チーム対東京チームのメンバー 後列左端のスーツ姿の男性がヘーグ YC&AC所蔵
写真2 YC&ACのサッカー・チームの写真(上)
とともに貼られた写真1(下)
 YC&AC所蔵
写真2 YC&ACのサッカー・チームの写真(上)とともに貼られた写真1(下) YC&AC所蔵

両チームのイレブンとヘーグらが写っているが、中列左から三人目と四人目の間にカップが置かれている。

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